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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年4月22日(日) 08時30分

    山城とは(下)

    2018年4月17日(火) 放送 / 2018年4月22日(日) 再放送

    「山城」と呼ばれる以前は、弥生時代中期以降の「高地性集落」がルーツでした。それが「山城」の時代となった最初の段階である「古代山城」は、朝鮮半島の様式で建てられた城でした。そして「最も標準的な山城」と呼ばれるのが「中世山城」なのですが、「中世」という時代は複雑で、時代の進展に伴って刻々と「山城の姿」が変わっていきました。規模が大きくなるとともに、長期の籠城にも耐えられるように、城そのものが大型化しただけでなく、複数の城をネットワークで結び、山系全体が要塞化していきました。

    そして次の「戦国時代」になりますと、もっと機能を充実させる必要が出てきます。「掘っ立て柱式」ではなく、基礎の土台を本格的な「礎石」とした上に、恒久的な建物を構えて領主が住むようにして、更なる長期滞在を可能にしていきます。領主以外の家臣や、謀反を防ぐための人質たちは、山の中腹に住まわせました。

    そして戦国時代も後期に入ると、逆に「山城の存在価値」が低くなり、次第に山から平地へと降りていきます。なぜでしょうか。理由はこうです。ほぼ日常的に戦いの危機にさらされるようになると、麓と山頂を常に行き来しなければならず、不便を感じるようになりました。加えて、守護大名から戦国大名となった領主が、広大な領地の支配を固めなければなりません。その「在地支配機能」を高めるには、山頂の限られたスペースでは狭いため、もっと広い「平野の高台」に大きな城を建てて、「支配の象徴」として威容を見せつけた方が効果は上がります。

    さらに、各地に割拠していた地侍を一時の軍事同盟ではなく、家臣として組み入れる流れも活発になります。そうした地侍たちを同じ城下に住まわせるようになると、もはや狭い山城と中腹の居館では用をなさなくなり、「城下町を伴う平城」へと移らざるを得なくなったというわけなのです。

    そして、最終段階の「近世山城」に至ります。安土桃山時代後期、つまり豊臣秀吉の頃から江戸時代初期に築かれたのが、このタイプです。一時代前に、実質的に多くの山城は役目を終えていたため、近世山城はあまり多くはありません。例えば、岡山県高梁市にある備中松山城、山口県萩市の萩城などには、昔の山城がつぶされずに残っているのですが、宮城県仙台市の仙台城では、珍しく江戸期に入ってから山城を建設し、これを後に拡張・合体させて平山城に仕立てていった例などがあります。

    「山城」の移り変わりについて、時代を追って見てきましたが、「最も山城らしい」のは、山の上に城郭を置き、麓に住居としての居館を築いて、いざ戦となると山上に立てこもるという「中世山城」でしたね。次回から、いよいよ「西播磨の山城」に入りますが、初めに全域を見渡しての「概要」からになります。