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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年6月17日(日) 08時30分

    祇園岳城

    2018年6月12日(火) 放送 / 2018年6月17日(日) 再放送

    赤松氏について詳しく語る前に、たつの市新宮町馬立(うまたて)にある「城山(きのやま)城」についてお話しましたが、この城と密接な関係があったとみられる別の山城がすぐ北側にあります。「祇園岳城」と言います。城山城の北側の尾根続きに位置し、その名の通り祇園岳(340メートル)の山上に築かれていますが、城山城の出城だろうと考えられる以外に詳しい築城の経緯は分かりません。恐らく赤松一族が深く絡んでいるものと思われます。

    新宮町市野保にありまして、直線距離では、JR姫新線・播磨新宮駅から南西方向へ2キロ余りの所です。祇園岳山頂は、貴布弥神社跡の碑がありまして、切り立った崖のようになっているため素晴らしい眺めです。その山頂から西の方へ伸びる尾根を10メートルほど下った所に、平に削った「削平地」が何段か残っていて、西の谷の方へ降りていくと搦手門の礎石があります。少し南に降りると井戸の跡らしき遺構も残っておりまして、斜面には明らかに人工的な石積みが見えます。祇園岳城については、残念ながら、これぐらいしか情報がありません。

    城山城のある亀山(きのやま)を中心にして、祇園岳城が北に、そして南には的場山(まとばやま)(394メートル)が隣接しています。祇園岳城は一応、山城としての名もあり、出城跡に数えられるのに対して、的場山は「出城があったかもしれない」という程度で、山城を証明する確固たる資料に乏しいのは残念です。しかし山の高さからすると、祇園岳より的場山の方が50メートル以上高いので、出城としての機能が全く無かったと言い切るには無理があります。ほかにも小規模な砦が各所にあって、城山城と連携して「城塞群」を形作っていたのでしょう。

    このように、城山城を中心に付近の城を出城として「山城ネットワーク」を形成して戦いに備えていました。しかし「中世山城」の場合、ほとんどが戦国時代までに役目を終えた後は放置されていましたので、建物だけではなく、石垣や礎石なども崩れて、木や草に埋もれてしまいました。加えて記録もあまり残っていませんので、付近の状況からの推測で、出城となっていてもおかしくはない山が結構あります。

    この的場山もそんな山で、「城」であったかどうかは、曖昧模糊としていますが、「地域の山」としての存在感は、なかなかのものです。龍野かいわいに住む人々にとって、揖保川が「母なる川」とすれば、的場山は「父なるもの」とされていまして、またの名を「台山(だいやま)」として慕われています。

    的場山の頂から南東へ下山すると、野見宿祢神社と龍野神社を経て、龍野城下に至りますが、いったん北東へ向かってから南東へ下ると、両見坂(りょうみざか)峠を経て鶏籠山(けいろうざん)(218メートル)から城下に下る、やや遠回りの登山道もあります。