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山崎整の西播磨の山城

  • 2018年7月1日(日) 08時30分

    城山城の新説

    2018年6月26日(火) 放送 / 2018年7月1日(日) 再放送

    嘉吉元年(1441)年9月10日、たつの市新宮町馬立(うまたて)にある「城山(きのやま)城」に籠城した赤松満祐ら一族郎党が城に火を放って自決し、赤松氏はいったん断絶しました。今回は、その後の城山城が一体どうなったのか。さらには、全盛時の城の様子について、従来の通説に変更を迫る「近年の研究成果」を見ていきましょう。

    赤松氏が滅びた「嘉吉の乱」から満祐の弟・義雅の孫・政則によるお家再興までの17年間は、赤松家は断絶していました。城山城合戦に参加し、中心的役割を果たした但馬の山名氏が播磨一帯を領有しましたが、城山城に関する情報はしばらく史料から途絶えるため、恐らく放置されていたものと思われます。

    そして合戦から100年近くたった戦国時代さなかの1538年11月、出雲の尼子晴久が大軍を率いて播磨に乱入し、現姫路市の「置塩城」の赤松政村(満祐の弟・義雅の玄孫で晴政とも)を追放して、一時は播磨全域を手中にしました。当時、尼子氏が播磨支配の拠点にしたのが、城山城だったと見られています。揖保郡にあった鵤庄(いかるがのしょう)の代官が城山城に赴いて尼子晴久に会ったと伝える古文書が残っています。しかし、尼子氏は1540年に播磨から撤退していますので、城山城にいたのは、丸2年ほどだったようです。尼子氏がいなくなった後、城山城は再び利用されることはありませんでした。

    さて、さまざまなドラマがあった城山城ですが、全盛を誇った頃の様子が近年、徐々に明らかになっています。例えば、通説の「大手道」と「本丸」「二ノ丸」に対する疑問です。実際は大手道の南側の、これまで「兵糧道」とされてきた所が大手道ではないのかとの新しい説です。城山城に至る登山道を見ましょう。

    城山城を中心に北側に祇園岳城、南側に的場山があります。城山城の方からこれまでの大手道をたどると、城山(きのやま)と祇園岳の間にある()の池辺りから東にほぼ真っすぐ馬立地区へ延びる道と考えられていました。それは、海抜458メートルの頂上に本丸があり、その南のやや低い所が二ノ丸とされてきたため、本丸に近い北側の亀の池を経由する道が大手と見られました。しかし新説では、二ノ丸より南の「赤松屋敷跡」と伝えられる辺りを中心と考えます。従来の本丸、二ノ丸とも土地が平らに削られる部分がはっきりしないのに対して、こちらの屋敷跡付近は、南から入り込んだ谷の最も奥にありまして、それを取り巻くように上下左右に曲輪が配置され、兵糧道からの防御がしっかりと成されているからです。

    こうした構造は、古代から中世の山岳寺院に見られ、畿内では山岳ゲリラ戦法が流行した南北朝期に、はやりました。そんな施設が先にここにあり、赤松円心の三男・則祐が城郭に改修した可能性が高いと見ています。二ノ丸の削平が不十分な点と、西側からの攻撃に弱い点などから、ここでの籠城は考えられず、兵屯所などに使われたのではないかと見ています。