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山崎整の西播磨の山城

  • 2018年7月22日(日) 08時30分

    坂本城(下)

    2018年7月17日(火) 放送 / 2018年7月22日(日) 再放送

    赤松氏が播磨国守護として領国支配した拠点が現姫路市の書写山南西に位置する「坂本城」だったという話を前回しました。「西播磨の山城」エリアからは外れますが、赤松氏の根城として重要ですので、さらに詳しく見ていきましょう。

    この坂本城は中世の城としては珍しく山城ではなく「平城」でした。本来、籠城に向かないため平地での築城を避けるのですが、播磨一円の領国支配を優先した結果でした。加えて、書写山円教寺の宗教勢力も当てにしていたはずです。そんな坂本城の起源ははっきりしませんが、赤松氏中興の祖・円心が14世紀初めに築城したのではないかとされます。

    円心は、常に足利尊氏と行動を共にしていました。鎌倉幕府を倒して後醍醐天皇による建武政権を樹立する際も、また天皇に反旗を翻して室町幕府を打ち立てる時も尊氏側に付きました。室町幕府の成立後10年を過ぎる頃から、将軍の尊氏と弟の直義(ただよし)の仲が悪くなり、「二頭政治」が揺らぎ始め、1350年からの観応年間に入ると対立が激化しました。この室町幕府の内紛を「観応の擾乱」と呼びます。尊氏と執事の高師直(こうのもろなお)に対して直義が、それぞれを盟主とする武士層を2分して各所で戦いを繰り広げました。最終的には、2年後の1352年2月、鎌倉で尊氏が直義を毒殺して乱は終息に向かいました。

    坂本城は、この「観応の擾乱」の舞台にもなりました。1351年1月、京都で直義軍に敗れた尊氏は丹波を経て、赤松円心を頼って坂本城に落ち延びました。尊氏に従っていた高師直の兄弟・師泰(もろやす)も美作軍を破ってこの城に入ります。2月には直義軍5000余騎が現加東市の光明寺にまで迫ります。これを尊氏軍が1万余騎で取り囲みますが、直義軍が坂本城を攻めるとの知らせで、尊氏は急ぎ兵庫で直義勢を迎え撃ちますが、大敗します。

    この戦乱から90年後、赤松宗家は、円心の三男・則祐の系統に移り、円心の曽孫・満祐が坂本城を拠点に絶頂期を迎えますが、第6代将軍・足利義教を殺害する「嘉吉の乱」で赤松家はいったん断絶してしまいます。その後の坂本城を追いましょう。嘉吉元(1441)年9月初め、但馬から山名宗全軍が坂本城に押し寄せ、城はあっけなく落城しました。その直前、赤松満祐ら一族郎党は、たつの市新宮町の「城山城」に移り、籠城の末、城に火を放って自決した事実は、既にお話した通りです。この後、坂本城には宗全が入り播磨を支配しましたが、あまり長くは続かず、山名対赤松の勢力争いが繰り返されるうち城も衰退していきます。

    赤松満祐の弟・義雅の孫・政則が赤松氏を再興した後も一進一退が繰り返され、応仁の乱では山名氏と対立する細川氏に付いて播磨を奪回しますが、再び山名氏が坂本城を奪い返します。この攻防は1488年、山名氏が内紛で播磨を撤収してようやく一時、収まりますが、1496年に政則が亡くなると「播磨錯乱」という内乱が起き、1522年、山名宗全の曽孫・誠豊(のぶとよ)が坂本城を攻めるも敗退したとの記録を最後に、廃城したものと思われます。