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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年8月5日(日) 08時30分

    白旗城(中)

    2018年7月31日(火) 放送 / 2018年8月5日(日) 再放送

    赤穂郡上郡町赤松にある白旗城は、赤松氏中興の祖である円心が一族発祥の地に築城し、飛躍するきっかけとなった山城であることを前回お話しました。今回は、どんな特徴を持った城なのか、詳しく見ていきましょう。

    白旗城の最寄り駅は智頭急行の苔縄駅で、北東方向へ直線距離なら2.7キロ、そして隣の河野原(こうのはら)円心駅からは南東へ2.9キロで、徒歩20分ほどです。ちなみにJR山陽線上郡駅からは北へ5.3キロ離れています。その白旗城は、海抜440メートルの白旗山山頂付近にありまして、時代区分では「中世山城」で、国の史跡に指定されています。

    元は「白幡寺」という寺院でした。読みは同じですが、「白」に八幡神社の「幡」と書きます。このお寺を城として使い始めたところ、神仏が白旗として現れるという瑞兆があったため、八幡神と春日神を勧請したとの伝承が残っています。恐らく白旗城も山岳寺院を改修したものと思われます。似た事例は、神戸市灘区の麻耶山城や京都府相楽郡笠置町の笠置城などにも見られます。これは、赤松氏がまだ後醍醐天皇方だった頃、楠木正成とも交流があり、その根城「千早・赤坂城塞群」の構造を参考にしたとも考えられます。

    白旗城は、山上から尾根・谷にかけて曲輪群が築かれていまして、規模の大きさに驚かされます。東西約350メートル、南北は約850メートルもあり、戦国時代前半まで改修を重ねた跡が見られ、広く播磨の中世山城を眺めても破格の大さを誇ります。というのも、北方約3キロにある獅子見(しじみ)集落は海抜478メートルもあり、南西2.7キロにある海抜270メートルの下枝城と併せて、南北朝期には、獅子見から白旗を経て下枝に至る白旗城塞群を形成していたと考えられます。円心の三男・則祐が後に約13キロ東の城山城へと本拠を移し、廃絶した赤松氏を再興した政則が置塩城を本拠にしますが、白旗城は戦国末期まで使われていたようです。

    本丸跡、それに櫛橋(くしはし)丸跡と伝えられる第1・第4郭から西の赤松方面への眺望はとても良く、第1郭の東からは播磨科学公園都市が遠望できます。先の櫛橋丸とは、軍師・黒田官兵衛の妻・(てる)の実家である志方城主の櫛橋氏ゆかりの場所と思われます。また侍屋敷と伝えられる谷の曲輪には、高さ1.5メートルほどの石積みや庭石のような立石が残っていまして、山岳寺院跡の遺構とよく似ていることから、合戦のない時は、神仏習合時代の白旗八幡神社の奥の院として使用されていたものと考えられています。第3・第4郭には、堀切の上に土塁や石積みが築かれていまして、後の戦国時代後半の城郭になると、さらに厳重な防御施設へと発達していくのですが、その初期段階が既にここに見ることができます。

    さて、白旗城は赤松円心の指示で三男の則祐が築城したと思われますが、さらに200年以上さかのぼった平安時代後期の12世紀初め、源秀房(あるいは季房=すえふさ)が、この地に来住して築城したとの説を『播磨鑑』が記しています。