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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年8月12日(日) 08時30分

    白旗城(下)

    2018年8月7日(火) 放送 / 2018年8月12日(日) 再放送

    赤松氏発祥の地である赤穂郡上郡町赤松に位置する白旗城について、2回にわたって見てきましたが、築城のきっかけは、後醍醐天皇による建武政権に反旗を翻し、足利尊氏と共に室町幕府を打ち立てる戦いで、建武政権側の新田義貞の軍勢を迎え撃つためでした。今回は、円心と三男の則祐時代に続く白旗城と赤松氏一族の運命を追いましょう。

    円心には、息子が10人近くいましたが、歴史に名が残るのは、長男・範資(のりすけ)と、次男・貞範(さだのり)、三男・則祐(そくゆう)の3人です。三男の名は「のりすけ」とも読みますが、それでは長男と区別がつきませんので、普通、音読みの「そくゆう」と呼びます。三兄弟のうち、活躍も失敗もし、かと思えば、お家の復興もして、何かと世を騒がせたのは、三男・則祐の系統です。赤松宗家は、まず長男・範資が継いだのは当然ですが、次は次男・貞範を飛ばして三男の則祐が継承しました。

    白旗城は、円心が手配をして事実上、築城をしたのは則祐ですので、当然の流れで則祐が城を継承しました。加えて城の麓に守護館や五社八幡神社を建て、河野原(こうのはら)に宝林寺を営み、整備します。則祐の息子・義則と孫の満祐の代になると、白旗城に白旗が降り注ぐ瑞兆が伝えられています。その縁起を機に、城の鎮守として白旗八幡神社が山麓に移されたとされます。同神社には、一切経とも呼ばれる「大蔵経」が収められていることから、寺院と一体化した神仏習合の社として整備されたと思われます。

    そして、赤松一族最大の危機「嘉吉の乱」で1441年、円心の曽孫・満祐ら赤松宗家がいったん滅びます。しかしその後も、お家の再興を目指す、満祐のすぐ下の弟・祐尚(すけなお)の息子、つまり満祐の甥・赤松則尚(のりなお)が一時、白旗城に入ります。後に、宗家を再興した政則の養子で、円心の長男・範資から7代下の義村が、守護代の浦上村宗と対立して入城する戦国時代前半までの180年余り、白旗城は赤松宗家にとって最も重要な拠点となってきました。お家を再興させた赤松政則は赤松満祐の弟・義雅の孫に当たります。

    赤松宗家は、豊臣秀吉の時代に姫路市夢前町の置塩城1万石に移り、さらに徳島県藍住町の住吉城1万石が最後とされています。ただ庶流ながら、円心の長男・範資の末裔が一時、石野氏を名乗り、別所氏や前田氏に仕えた後、江戸時代も旗本として生き抜きています。同様に、赤松氏の菩提寺である法雲寺(上郡町苔縄)や氏寺の宝林寺(同町河野原)、五社八幡神社(同町赤松)などの「ゆかりの寺社」は江戸時代に入っても残りました。播磨の赤松氏末裔たちによって語り伝えられる「白旗城伝説」は、村上天皇の孫・源師房の孫とも言われる源季房(すえふさ)までさかのぼり、赤松氏ゆかりの山城として触れられています。

    次回は白旗城と関係深い、相生市矢野町森と瓜生にまたがる「感状山(かんじょうさん)城」を取り上げ、さらに姫路市夢前町の置塩城へも少し寄り道をいたします。