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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年9月9日(日) 08時30分

    感状山城と置塩城(上)

    2018年9月4日(火) 放送 / 2018年9月9日(日) 再放送

    前回まで3回にわたって、相生市矢野町森にある感状山城についてお話しましたが、まだ大切な情報が残っていましたので、少し「落ち穂拾い」をしておきます。城が戦いへの備えとしての対策が、発掘によって明らかになりました。調査報告書を基に見ていきましょう。

    まず、念入りに造られた「大手門」です。総石垣造りで、登り口の石段を中心に、鳥の翼を広げたような形に石垣が配列されています。石段が6段あって、登り口は広いのですが、上がるほど狭く造られていて、これは、大勢で上がって来られないようにした工夫です。両翼に伸びた石垣は、半円形に張り出した形になっていて、敵に横から矢が射かけられない仕組みです。さらに、握りこぶし大の石がたくさんあるのは、戦国時代の伝統的戦法の「つぶて」に用いられたと思われます。

    さて今回の置塩城ですが、西播磨エリアから外れますが、赤松一族の重要な山城ですので、少し寄り道をしましょう。実は、置塩城は相生市の感状山城跡と上郡町の白旗城跡の3カ所を合わせて1996年に「赤松氏城跡」の名称で国の史跡に指定されましたので、はやり避けられません。さらに「赤松一族」の落日が近づいた赤松則房(のりふさ)が豊臣秀吉のもとで1万石などを与えられたのが、この置塩城です。後に没収された後、1585年、今度は現徳島県藍住町の住吉城1万石に移されまして、実質、この則房が武将としての赤松氏の最後と見られると言いました。今回は、徳島に移る前にいた置塩城について詳しく見ましょう。

    置塩城は姫路市夢前町宮置と糸田にまたがる海抜370メートルの置塩山にあります。姫路の中心から北へ約10キロに位置しており、すぐ西側には夢前川が流れ、川に沿って播但街道が走る交通の要衝で、1469年、赤松政則が築城して赤松氏の居城としました。

    赤松政則と言えば、一度断絶したお家を再興した立役者です。系図的には、赤松円心の三男・則祐の孫・満祐が、室町幕府の第6代将軍足利義教を殺害した「嘉吉の乱」のため、たつの市新宮町の城山城で一族郎党が自決しました。17年間の逼塞の後に立ち上がったのが、満祐の弟・義雅の孫で、円心からすると6代目の政則でした。

    置塩築城後は、約100年間、赤松氏5代にわたって受け継がれます。ただし「応仁の乱」の後は戦国の世となっていくため、播磨も荒波にさらされていきました。加えて、初代城主の赤松政則も世継ぎを巡る問題がありました。

    村秀という実子がいましたが、庶子のため本家は継がせず、塩屋城主・宇野政秀の養子にやり、娘に婿養子を取りました。置塩2代目城主となる義村です。義村は、円心の長男・光範から数えて8代目ですので、直系の由緒ある血筋でした。しかし、義村の後見に就いた守護代の浦上村宗が災いをもたらします。その「災い」とは、次回のお楽しみです。