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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年10月14日(日) 08時30分

    龍野古城(下)

    2018年10月9日(火) 放送 / 2018年10月14日(日) 再放送

    たつの市龍野町上霞城にある龍野古城の(下)です。築城の頃の様子は、はっきりとは分かりませんが、赤松氏を復興させた初代置塩城主・赤松政則の側室の子・村秀が、たつの市御津町の塩屋城主・宇野氏の養子となり、後に新たな拠点となった龍野古城に移り、その息子・政秀が龍野赤松氏の勢力を広げました。

    時代は戦国の真っただ中です。赤松政秀の息子の代になると、秀吉の播磨攻めの軍門に下ります。以後、政秀の次男・広英(秀)は秀吉軍の一員としての軍功が認められ、朝来市の竹田城主に任じられました。今「天空の城」として知られるあの竹田城です。

    一方、空き家になった龍野古城には一時、秀吉の家臣が入り、軍事拠点として機能するよう改修しました。赤松氏による龍野古城の城主を整理すると、初代は赤松政則の側室の子で、宇野氏に養子に出ていた村秀、2代目はその息子・政秀、3代目は政秀の長男・広貞、そして4代目が政秀の次男・広英です。龍野赤松家は、この4代、80年弱で終わりました。

    結果的に、秀吉の進出で播磨は落ち着きます。三木の別所長治が謀反を起こして「干殺し」されたり、上月城の攻防なども終息し、龍野古城は、「戦い」より「支配拠点」へと役割が変わります。そんな安定期に初代城主となるのは、5万3000石で入った蜂須賀小六です。この頃から城は南の麓へと広がり、徐々に中世山城から近世の平山城へと装いを変えていきます。結局、蜂須賀氏は龍野城に4年いただけで、1585年には徳島へと転じ、以後、徳島藩主家として明治の廃藩置県まで続きます。

    蜂須賀氏が去った龍野城は目まぐるしく城主が交代します。後に広島藩主となる福島正則、秀吉一門の木下勝俊、出石藩主から岸和田藩主に転じる小出吉政、そして山口広貞なる人物を経て、一時は秀吉直轄の蔵入地となります。江戸時代には、姫路城主・池田輝政が龍野を含む播磨全域を支配します。姫路藩が52万石から15万石に縮小した後、本多政朝が入って龍野藩が復活し、順に小笠原氏、岡部氏、京極氏と短期政権が続きました。この後、14年間の幕府直轄時代を経て、1672年に脇坂安政が入ってから藩主が定着し、明治まで続きました。

    最後に龍野古城の縄張りを見ましょう。近世龍野城の北にそびえる鶏籠山頂に本丸、そして南の尾根先に二の丸を配した連郭式になっています。本丸の周りに石垣が残り、北に八幡宮があり、そこに至る参道が本丸の東側を回っています。この参道の一部は「古城の石段」と呼ばれます。本丸周辺には大量の瓦の破片が散乱し、本丸から南へ曲輪が連なって二の丸へと至り、さらに南へも曲輪が続き、南端の帯曲輪には土塁が巡っています。そして近世龍野城からの大手道が通じています。