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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2018年12月23日(日) 08時30分

    長水城(上)

    2018年12月18日(火) 放送 / 2018年12月23日(日) 再放送

    今回は「長水城(上)」です。先に取り上げた宍粟市波賀町上野の波賀城も海抜458メートルの高さを誇りましたが、同市山崎町宇野の長水城は、さらに100メートル近くも上回る海抜584メートルの長水山の山頂にそびえています。麓からでも450メートルもありますので、これぞ「中世山城」と言えるでしょう。

    さて、この長水城はいつ頃、誰が築城したのでしょう。築城と同時代の文献はなく、後の戦国時代に書かれたものでは、伝承と合わないという、よくあるパターンがここでも当てはまります。伝承では、前回お話したように、鎌倉時代初めの1193年に宇野頼景(則景とも)が佐用荘の地頭に任命され、やがて室町時代に入ってから東に隣接する宍粟郡一帯を宇野氏が支配するに至り、本拠を山崎に移したようですが、移転の時期もはっきりしません。

    『赤松家播備作城記』によると、14世紀半ば、南北朝期の文和年間(1352~56)、赤松円心の三男・則祐が長水城を築き、則祐の甥に当たる広瀬師頼に守備をさせたとし、代々、広瀬氏が城主を務めていたとも言います。この頃は、宇野氏が宍粟郡を支配していたはずなのですが、文献上ではなぜか長水城主は宇野氏ではなく、広瀬氏となっているのは不思議です。

    このように初期の長水城の実態は、よく知れないのですが、戦国時代の終わりに差し掛かる頃、天正8(1580)年に秀吉が播磨攻略の一環で長水城を攻めた際、はっきりと宇野氏の名が見えます。

    宇野氏は「赤松氏の本家筋」と主張しつつも赤松氏に仕え、守護赤松氏のもとで西播磨の守護代として重きをなしましたが、16世紀中ごろから10年余り赤松氏と対立しました。1567年に一応、和解したものの、毛利氏の外交に暗躍していた僧・安国寺恵瓊が和解の6年後に策略を巡らします。ぎくしゃくした宇野・赤松両者の関係に付け込み、信長と結んで、宇喜多直家に宇野氏側の広瀬攻めを提案しました。しかし、宇喜多氏もしたたかで、攻めた相手は、赤松氏と対立していた浦上宗景でした。

    この辺り、敵味方が混乱しますが、浦上氏が出たところで、少し復習しておきます。浦上氏は則宗の時、赤松氏を復興させた赤松政則を助けた殊勲で播磨国守護代となり、徐々に力を付け、則宗の兄の孫、浦上村宗の時、一時は播磨・備前・美作の3国を実質支配した上、政則の跡を受けた赤松義村を殺害し、下剋上を成し遂げます。しかし、浦上村宗の長男・政宗がたつの室山城主の時、息子の清宗と黒田官兵衛の妹を政略結婚により浦上氏を立て直そうとした婚礼の日、龍野城主の赤松政秀に襲撃されてしまいます。宇喜多氏から攻められた浦上宗景とは、赤松政秀に息子もろともに殺害された浦上政宗の弟でした。