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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年1月27日(日) 08時30分

    近世山崎城

    2019年1月22日(火) 放送 / 2019年1月27日(日) 再放送

    今回は「近世山崎城」です。宍粟市の山城を幾つか見てきましたが、中心部山崎町の城を整理すると、北から長水城があり、その南に篠ノ丸城が位置しており、共に秀吉の播磨攻めで落城しました。篠ノ丸城のさらに南へ約1.5キロの平野の段丘上にあるのが「山崎城」で、高さが海抜98メートルしかありませんので山城ではないのですが、時代は中世から近世に至る変わり目で重要な位置を占めます。

    時は、秀吉が最も力を持っていた頃、1587年、龍野城から山崎に転じた木下勝俊が「平城」として山崎城の築城を始めました。勝俊は、秀吉の正室おねの兄・木下家定の長男でしたが、築城を始めた7年後の1594年に現在の福井県の若狭国小浜に移った後、山崎はしばらく秀吉直轄の「蔵入地」となっていました。そして1600年の関ケ原合戦の後は、池田輝政が52万石の姫路城主として、宍粟郡を含む播磨全域を支配します。

    しかし、輝政が没したのに続き、1615年、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家が滅んだ後は、近畿の領国支配ががらりと変わります。特に外様の池田一族にとっては受難でした。大坂の陣が済めば、もう西国への強力な備えは要りません。「お役ご免」と言わんばかりに大姫路藩が解体され、最終的に15万石に縮小するのに伴い、幾つかの新しい藩が誕生しました。山崎藩もその1つで、輝政の四男・輝澄が3万8000石で入り、後に佐用郡も加わり6万1000石に拡大しました。

    山崎の城下町も1630年代に発展し、城の西・北・東を取り囲むように武家屋敷を置きまして、その北に外堀を設け、さらに外側に町屋を配しました。規模は東西1キロ、南北380メートルに及び、城下の北東隅を大手口として、番所と枡形門を設けていました。

    順調に発展していたかに見えた山崎藩でしたが、輝澄が藩主となって25年後の1640年、藩の政治を家老に任せたことによるお家騒動が勃発、これが幕府に知れて改易されてしまいます。その後は、松平(松井)康映(やすてる)―池田恒元と交代した後、2度目の池田氏に後継ぎがなく断絶。翌1679年、本多忠英が1万石で入った段階で「陣屋」となったため、城の規模も縮小されまして、使用が認められたのは旧本丸だけでした。現在は、旧山崎町役場南側が本多公園となって、その名の通り、本多氏時代の陣屋門1棟と土塀の一部が、わずかに名残をとどめています。

    山崎町内には、ほかにも聖山(ひじりやま)、塩田、柏原(かしはら)などの山城がありますが、まだ触れていない宍粟市千種町と一宮町内の分も含めまして、後日詳しくお話しますので、ご期待ください。次回から佐用町、赤穂市、太子町へと向かいます。