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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年4月28日(日) 08時30分

    大島山城(上)

    2019年4月23日(火) 放送 / 2019年4月28日(日) 再放送

    今回は、相生湾の付け根、相生市那波(なば)大浜町にある大島山城の1回目です。これまで1年以上にわたって取り上げてきた山城の大半は、内陸にありました。一部、海岸線の小高い丘に築かれた「海に臨む山城」もあり、たつの市御津町室津の室山城や、赤穂市坂越にある茶臼山城と坂越浦城などは、いわば「海城」でした。

    そんな中にあって、大島山城は、もともと相生湾の付け根近くに浮かぶ、小さな島の山頂に築かれていました。今は陸地とつながっていますが、築城後600年余りたった江戸時代中期に新田開発の際、「島」ではなくなったとされます。

    小さな島の山城も珍しいのですが、築城者も初めて登場する“新顔”で、海老名家季と言います。築城は平安後期の1104年、家季が矢野荘別名(べちみょう)下司(げし)職にあった頃です。別名とは、例名(れいみょう)に対する歴史用語で、簡単に言えば、例名が「古くから公的に認められた領地」なのに対して、別名は「国衙の役人による私的開発地」という意味です。下司は、荘園の在地管理人で、「下司(げす)の勘繰り」などと軽蔑的にも使われるように、都にいて赴任しない「上司」と比べると下級の役人ですが、地方では力を持っておりまして、世襲化して鎌倉時代には地頭や御家人になる者もいました。

    海老名氏は、もともと今の神奈川県海老名市に本拠を置く豪族でしたが、同族の紛争で分裂した結果、播磨の矢野荘に地頭職を得ます。以来「播磨海老名氏」として赤松円心に仕え、数々の戦いに参加して、手柄を立てていきます。

    後醍醐天皇による建武政権に反旗を翻した足利尊氏に呼応した円心に、海老名氏も従いました。時は南北朝期の1336年、やはり別名の下司だった7代目の海老名景知(かげとも)は、弟の詮季(あきすえ)や同族の泰知らと、上郡町の白旗城に立てこもり、赤松軍として天皇方の新田義貞軍と戦い、戦功を上げました。ところが、留守にしていた大島山城は、海の入り江を堀としたユニークな要害でしたが、新田勢に焼き落とされてしまいました。

    この大島山城の現在について、また城主だった海老名氏については次回、お話いたします。