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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年5月5日(日) 08時30分

    大島山城(中)

    2019年4月30日(火) 放送 / 2019年5月5日(日) 再放送

    相生市那波大浜町にある大島山城の2回目です。大島山城は、相生湾の奥にあり、周囲の入り江を堀として、もともと島だった所に築かれた「海城」です。今の神奈川県の相模国からやって来た海老名家季(いえすえ)が築城してから600年余りたった、江戸中期の1710年に、前川新右衛門という者が、那波新田を開墾した際に陸続きとなったとされています。かつて城があった山頂部は現在「大島山桜公園」と、真言宗醍醐派の善光寺の境内となっていますが、残念ながら城の遺構はほとんど残っていません。

    さて、海老名氏とは何者でしょうか。村上天皇の子孫、つまり赤松氏と同じ「村上源氏」とも称されますが、系図的には少し無理があるようです。武蔵七党の1つ横山党に属し、今の東京都多摩市に当たる小野郷を本貫とした豪族が、相模国の海老名に土着して、海老名氏に改めました。

    しかし、後に家督争いがあり、幾つかに分家した1つ、家季が平安後期の1104年、播磨国那波、今の相生市に移住して「播州海老名氏」の祖となりました。大島山城をはじめ、赤松円心が築城したとされる、たつの市との境にある光明山城などの城主も務めました。

    家季を祖とする播磨海老名氏は、孫の盛重が矢野荘別名の下司の時、居住する大島付近の地名「おう」を、一族発祥の地の相模から「相」の字と「生まれる」という文字を組み合わせた「相生」の2文字を村の名としました。ただし発音は「おう」のままです。こうして別名の下司職や例名の地頭職は、海老名一族に受け継がれました。ちなみに「おう」の発音が「あいおい」に改称されたのは昭和17年に市制が施行された時でした。

    南北朝の動乱期には、一族が播磨国守護の赤松氏に従って各地を転戦し、上郡町の白旗城に立てこもり、後醍醐天皇方の新田義貞の軍勢に耐えましたが、留守にしていた大島山城は焼かれてしまいました。海老名氏は、室町時代から戦国時代にかけても、赤松氏に属する豪族でしたが、赤松氏の没落に合わせるように、徐々に勢いがなくなりました。豊臣秀吉による刀狩りや太閤検地、更には池田輝政が全播磨を統治するに至り、海老名氏は武士身分を返上して帰農し、江戸時代には先祖の功績により、名家として存続しました。