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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年6月30日(日) 08時30分

    赤穂城(2)

    2019年6月25日(火) 放送 / 2019年6月30日(日) 再放送

    「赤穂城」の2回目です。江戸時代の播磨は当初、外様の池田輝政が藩主を務める52万石の姫路藩が1国を支配していました。加えて、次男・忠継が備前藩、三男・忠雄が淡路藩、弟の長吉が鳥取の各藩主を務めていて、池田一族で、播磨・備前・淡路・因幡の旧4カ国に君臨していました。もちろん中心は姫路城で、一族を合わせた約100万石にふさわしい規模を誇ったわけです。

    しかし、1615年に終結した「大坂の陣」で豊臣家が滅んだ後、「西国の防波堤」としての池田一族はお役御免となり、大姫路藩が解体されます。姫路藩は途中経過を経て1617年以降、譜代大名による15万石の新姫路藩に生まれ変わります。大姫路藩解体の結果、同年までの2年間で新たに生まれて維新期まで続いたのが、赤穂藩をはじめ龍野・明石・林田・山崎の五つの藩でした。ほかに平福藩と鵤(後の新宮)藩もできたのですが、短命でした。

    こうして立藩した赤穂藩は、発足当初、姫路藩の池田家から藩主を迎えます。初代は、池田輝政の五男・政綱です。その裏には池田一族の事情がありました。大坂夏の陣の後、1615年に岡山藩主だった池田忠継が亡くなったため弟の忠雄が、淡路藩から岡山藩に国替えとなりました。その時、岡山藩領をそのまま忠雄が相続したのではなく、母・良正院の遺領分が除かれ、うち3万5000石が分けられて赤穂藩が誕生したのでした。

    しかし、この頃、池田氏の命脈は細っていました。父・輝政、その長男・利隆、次男・忠継を追うようにして、初代赤穂藩主となった、輝政の五男・政綱が1631年、後継ぎが無いまま没してしまいました。そこで、佐用町の平福藩で2万5000石を領していた、政綱の弟・池田輝興に相続が認められた時点までは良かったのですが、輝興は1645年、突然、乱心して正室や侍女数人を斬殺してしまいます。「正保赤穂事件」と呼ばれ、構図は異なるものの、浅野家による「忠臣蔵」の前触れのような形となりました。

    結局、この事件で池田輝政の五男・政綱に始まった赤穂藩は、弟の輝興の代で、本家の岡山藩主・池田光政の預かりとなり、断絶してしまいました。池田氏2代での不名誉な幕引きを経て1645年、茨城県笠間市の笠間藩からやって来たのが、浅野長直です。池田時代より1万8000石も多い5万3000石での赤穂入りでした。

    浅野家初代の藩主・長直は、石高を超える壮大な赤穂城を13年もかけて築城し、城下町も整備しました。著名な軍学者・山鹿素行も設計に関わり、工事費用がかさんで財政は悪化しましたが、幸い池田時代に本格化した製塩事業がありました。浅野時代に入り、塩田開発を奨励し、「赤穂の塩」は徳川将軍家も認める特産品となり、藩財政を支えていきます。