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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年8月4日(日) 08時30分

    森家の系譜(上)

    2019年7月30日(火) 放送 / 2019年8月4日(日) 再放送

    「森家の系譜」の1回目です。6回にわたった赤穂藩は、忠臣蔵で有名な浅野家はわずか3代56年しか藩主を務めていないのに、続く永井家1代を経て、2万石ながら12代165年も藩を支えてきたのは森家でした。その赤穂・森家と関係が深い、佐用町三日月にあった三日月藩を取り上げます。

    村の地名から乃井野藩とも呼ばれる三日月藩の誕生は遅く、江戸も中期に入った元禄時代の1697年です。津山本藩の森家が断絶してしまったため、分家の津山新田藩主だった森長俊が、同じ石高の1万5000石を与えられて三日月藩を立てました。森家は佐用・揖西・宍粟の3郡内の一部を領有して、廃藩置県まで9代174年も藩主を務めました。

    では、赤穂の藩主家を含む「森家」とは、どんな家系だったのでしょうか。清和源氏をルーツに1603年、長野県北部の川中島藩から森忠政が、美作国の津山藩18万6500石を立藩しました。地名を鶴山(つるやま)から津山と改めますが、音読みの「かくざん」が愛称として残ります。翌年、津山城の築城に着手して、12年をかけて1616年に完成させました。

    以後80年ほどは平穏に過ぎましたが、1697年、4代藩主の長成(ながなり)が亡くなり事態が急変します。2代目・長継の子で、叔父である家老の養子になっていた衆利(あつとし)を呼び戻し、藩主家の末期養子に迎えました。同年、5代津山藩主となった衆利が就任挨拶のため江戸に向かう途中、伊勢で乱心したため、幕府は津山藩を召し上げました。

    しかし隠居していた2代藩主の長継が、87歳ながら健在で、息子も多数いたため、幕府は石高を大幅に減らした上で、家名の存続を認めました。森家の新しい任地は、津山から西へ70キロほど離れた、岡山県井原市の西江原藩2万石でしたが、翌年、長継は8亡くなりました。この国替えに伴い、津山新田藩1万5000石を領していた分家の森長俊が、同じ石高で佐用町の三日月藩に移りました。

    同時に長継の弟で重臣・関家の養子となっていた関長政が治める宮川藩1万8700石は次の長治の時、岡山県新見市の新見藩に移りました。残った津山本藩は、結城秀康を祖とする越前松平家から分かれた松平宣富が10万石で入り、廃藩置県まで松平氏が治めました。

    最後に、「津山」の本家と「三日月・森家」「赤穂・森家」の関係を整理しましょう。津山・森家は、森蘭丸の末の弟・忠政が初代で、5代衆利(あつとし)の時にいったん断絶しましたが、2代長継が復帰し、西江原藩2万石で家名をつなぎました。その9年後、次の長直の時、赤穂藩に移り赤穂・森家となりました。残る三日月・森家は、津山3代藩主・長武の弟・長俊が津山新田藩を立藩しましたが、本藩解体の際、三日月藩に移りました。