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山崎整の西播磨歴史絵巻

  • 2019年8月25日(日) 08時30分

    幕末の志士・立石孫一郎

    2019年8月20日(火) 放送 / 2019年8月25日(日) 再放送

    上月出身の幕末の志士・立石孫一郎の話です。佐用町乃井野に陣屋があった三日月藩の領地は、播磨の佐用・揖西・宍粟の3郡内65カ村1万5000石を領する小さな藩でしたが、領地には、戦国時代に激しい攻防を繰り広げた上月城も含まれていました。

    江戸時代を通じて三日月藩の領地はほぼ平穏だったのですが、幕末にはそうもいきません。上月で生まれ育った立石孫一郎という大庄屋の息子が、激動の世に名を残します。あまり知名度はありませんが、兵庫県よりむしろ、多くの志士を出した山口県や立石らに襲撃された代官所があった岡山県倉敷市での方が知られるかもしれません。

    時は維新期、三日月藩兵が新政府軍の一員として戊辰戦争の東北戦線に出征する3年前。立石は1865年、長州藩の南奇兵隊に入りますが、その生い立ちを見ておきましょう。上月村の大庄屋・大谷五右衛門喜道(よしみち)の長男として生まれ、名を維敬(これたか)で恵吉と通称されました。16歳で大庄屋見習になりますが、藩役人と口論して母の実家、現津山市の二宮村にあった立石家に寄食します。翌1848年、今度は、倉敷市の庄屋・大橋平右衛門の養子となったのを機に敬之介と改名します。

    以来、17年間は「大橋敬之介」を名乗り、倉敷で暮らします。33歳となった立石は、母の実家の姓・立石に改め、名も孫一郎と変えます。やがて志士として長州に向かい、南奇兵隊に入るわけです。南奇兵隊とは、幕末に長州藩で結成された軍団の一つです。1863年に、高杉晋作が身分を問わずに同志を集めて創設した奇兵隊が有名ですが、翌年誕生した真武隊など数隊が合流する形で結成されたのが南奇兵隊でした。北西部にある長門地方の奇兵隊に対して、結成地の周防地方が南東部にあるため、南奇兵隊と称されました。隊員の身分は農民・神職・僧侶・下級藩士らさまざまで、300人を超えていました。

    1865年、長州藩の正規軍が整理統合の際、第二奇兵隊と改称し、奇兵隊総督が第二隊総督を兼務し、隊員を精鋭100人に絞りました。この時、幹部に昇進していた立石が翌年、隊員のほとんどを率いて脱走し、幕府の倉敷代官所と、3年前に1万石の藩になったばかりの岡山県総社市の浅尾藩陣屋を相次ぎ襲撃しました。「倉敷浅尾騒動」です。脱走兵は幕府軍の銃撃を受けて長州藩領へ逃げ帰りますが、立石は隊士の助命嘆願を工作中に潜伏先の山口県光市の千歳橋で殺害され、脱走兵らの多くが処刑されました。

    立石無き第二奇兵隊は1867年、膺懲(ようちょう)隊と合併して健武隊となり、戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」に参加しています。立石らに襲撃された浅尾藩が幕府寄りから新政府側にかじを切ったのは「倉敷浅尾騒動」のすぐ後でした。