西播磨歴史絵巻(2)「衣笠城」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

西播磨歴史絵巻(2)「衣笠城」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』(ラジオ番組)。第2回のテーマは「衣笠城」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 たつの市神岡町大住寺にある衣笠城は、伝承によると赤松配下の衣笠氏が城主を務め、1441年の嘉吉の乱で落城する直前までは衣笠政時が城主だったと言います。また若狭守を名乗った衣笠氏は、たつの市揖西町の竹万(ちくま)城も築城しています。衣笠城は一時、山名氏に支配されましたが、応仁の乱の後は、龍野赤松氏に仕える松原掃部大夫(かもんのたいふ)定久が居城したともされます。

 この松原氏は16世紀後半の永禄年間(1558~70)、たつの市新宮町越部の「中の庄構」に居城したことがあります。しかし、秀吉の播磨侵攻で1577年に衣笠城は廃されました。本格的な城郭跡は無く、「のろし台」の遺構が残るだけです。

 衣笠氏は、赤松氏の一族・別所氏から分かれたとされ、赤松円心の弟・円光の曽孫・持則を祖とします。赤松88家の一つで、「嘉吉の乱」では、書写山の坂本城に駆け付けた中に衣笠豊後守の名があります。乱の後、赤松家を復興させた赤松政則の配下に、持則の曽孫・上野介祐盛(すけもり)がいて、軍功を挙げ、政則から「衣」を賜りました。祐盛はこれを笠印とし衣笠姓を名乗りました。この衣笠氏の一統が、たつの市神岡町の衣笠城主を務めた思われます。

 秀吉が播磨に入ると赤松一族の多くは秀吉に従いましたが、三木城の別所長治は毛利氏と結んで抵抗しました。このとき衣笠家の当主だった、祐盛の孫・範景は、別所氏にくみして三木城で篭城したため、「三木の干殺し」に遭い、1580年、落城しました。衣笠範景は逃れて神戸市西区の櫨谷町に住んだとも、三木城で戦死したとも言います。

 一方の松原氏は赤松満祐の弟・赤松祐之(すけゆき)の子・貞基が松原氏を名乗り、赤松政則の家臣になりました。一時、播磨を支配していた山名氏が撤収後、主君・政則から満祐の大叔父で、円心の息子・赤松氏春の旧領地、神戸市北区道場町日下部にある蒲公英(たんぽぽ)城を賜りました。松原氏が城主になってから松原城へと名を変えました。

 初代貞基の没後も松原氏は有馬郡の豪族として続きましたが、1577年、5代目・松原山城守義富のとき、秀吉に攻められ、嫡子の貞富と篭城の末、松原城は落ちました。また、義富は三木城で篭城後に逃れて帰農したとも言います。この説によれば、先の衣笠氏も松原氏もともに三木城で篭城したことになります。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『西播磨歴史絵巻』2020年4月14日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年4月14日放送回音声

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