西播磨歴史絵巻(3)「新旧龍野城」

LINEで送る

この記事の写真を見る(1枚)

 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』(ラジオ関西)。第3回のテーマは「新旧龍野城」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 たつの市揖西町平井にある平井城を語るに先立って、紛らわしい「新旧の龍野城」を整理しておきます。たつの市龍野町上霞城には、江戸初期に築城された「近世龍野城」と、それ以前の中世の城跡があります。古い方を「龍野古城」と呼びます。龍野城は鶏籠山城、台山城、朝霧城、霞(か)城などと呼ばれます。霞城は地名でもあり、龍野城の場所は上霞城です。たつの市街を見下ろす海抜218メートルの鶏籠山の山頂部と南の麓に位置する山城です。

 江戸期に築かれた近世龍野城は、古城の南麓にあります。古城の築城年代や築城者は定かではありませんが、1499年ごろ、赤松一統の宇野政秀が築いたとする説。また、赤松家を復興し、姫路市夢前町の置塩城を築いた赤松政則が1500年に、庶子の村秀に与えたとも言います。

 龍野古城の築城は説が分かれますが、赤松政則の側室の息子・村秀が重要な役割を果たします。当初、村秀は庶子のため赤松本家を継がせてもらえず、たつの市御津町の塩屋城主・宇野氏へ養子に出されました。しかし、赤松氏の新たな拠点として龍野古城が築城されると、村秀はこちらの初代城主となりました。その際、赤松に姓を戻したようです。以来、龍野赤松氏は4代、約70年にわたり、逆に本家の置塩城主を助けながら勢力を張りました。

 龍野赤松氏は、村秀から政秀、広貞を経て4代目の広英(秀)は降伏後、秀吉軍として四国攻めなどで活躍し、朝来市の「天空の城」竹田城主となります。その後の龍野古城は、徐々に中世山城から近世の平山城へと変わっていきます。

 龍野古城の縄張りは、近世龍野城の北にそびえる鶏籠山頂に本丸、南の尾根先に二ノ丸を配した連郭式です。本丸の周りに石垣が残り、北に八幡宮があって、そこに至る参道が本丸の東側を回っていて、参道の一部は「古城の石段」と呼ばれます。本丸から南へ曲輪が連なって二ノ丸へと至り、南へも曲輪が続き、南端の帯曲輪には土塁が巡ります。そして近世龍野城からの大手道が通じています。

 赤松氏4代の後の龍野城は、江戸初期にかけて、目まぐるしく城主が交代し、変転の最後となった京極氏は1658年、龍野から四国の丸亀に移るのですが、まさに「後は野となれ山となれ」そのままに、城下町を濁して去っていきました。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『西播磨歴史絵巻』2020年4月21日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年4月21日放送回音声

関連記事