西播磨歴史絵巻(4)「平井城と醸造業」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』(ラジオ関西)。第4回のテーマは「平井城と醸造業」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 龍野城は、龍野古城と近世龍野城がありますが、龍野古城より古いのが、今回取り上げる平井(位)城です。揖西(いっさい)平野を見下ろす、海抜350メートルとかなり高いところに位置しています。海抜394メートルの的場山(まとばさん)から南西に延びる尾根上に1495年、赤松政秀が京都・東寺の領地、現在の相生市に当たる矢野荘から人夫800人を動員して築城し、4年後、平井氏に守らせたと伝わります。曲輪や土塁などが確認でき、今も残る一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸などの地名も城跡の証しでしょう。城の南には山岳寺院の大道寺跡があります。

 地名と同じ平井姓は、たつの市揖西町小神(おがみ)付近の旧平井郷の発祥とされ、鎌倉期には「平位」の表記で記録に残ります。そんなゆかりの平井城は、龍野古城が鶏籠山城に築かれる前にあった“元祖龍野城”的存在です。この平井城から鶏籠山頂を経て、南麓に近世龍野城が築城されたと考えられています。

 平井城の終末期に城主を務めたのは平井備中守貞利でした。龍野赤松氏4代目城主の広英(秀)に仕えましたが、主家の移封に従って但馬の竹田に移りました。しかし、関ケ原合戦後、赤松広英が鳥取城下を焼き尽くす過剰な対応が徳川家康の逆鱗に触れ、自害に追い込まれたため平井貞利は古里・龍野へ戻りました。

 龍野赤松家の家臣の中には、武士を捨て、今日、地場産業として栄える醸造業を営んだ者が結構いました。円尾孫右衛門をはじめ横山五郎兵衛宗信、片岡治兵衛らですが、なかでも円尾は1666年に「淡口醤油」を開発しました。関西に薄味の食文化の隆盛をもたらし、今や世界的な和食ブームを沸き起こした原動力となったのは特筆に値します。また片岡が興した「幾久屋」は合併や再編を経て、今のヒガシマル醤油につながっている事実は驚きです。

 平井貞利もまた醸造業を開業し「石橋屋」ののれんを掲げます。武士から醸造業者という商人に転身したとはいえ、家康に切腹を命じられ、お家断絶となった大名家の元家臣の過去は、変えようがありません。役人が頻繁に石橋屋を訪れては、赤松家の動向をあれこれと詮索したと言います。

 それでも平井貞利は、ただ一言「赤松のことは存ぜず」としか答えなかったとされ、やがて「存ぜず」の漢語「不存」と名乗るようになり、同じ発音の「普尊」を自らの戒名にしました。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年4月28日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年4月28日放送回音声

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