西播磨歴史絵巻(8)「長谷山城(上)」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

西播磨歴史絵巻(8)「長谷山城(上)」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第8回のテーマは「長谷山城(上)」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 たつの市揖保川町大門にある長谷山城は、前回の伝台山城から北西へ4キロほどの所にある「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)を配した郡境の城」です。現在、長谷山城は、たつの市南部の西端に位置し、相生市と接していますが、市制以前は、それぞれ揖保郡と赤穂郡でしたので「郡境」だったわけです。こうした境界に近い立地は、山城の在り方にも影響します。

 国道2号とJR山陽線に挟まれた、海抜70メートルの長谷山頂上にあります。伝承によると、南北朝期に長谷川判官政時という武将が築城し、1455年に赤松一族の広瀬太郎師光(もろみつ)が居城したとされ、さらに1555年には龍野赤松家の年寄職・江(恵)藤越中守清好(きよよし)が城主となりますが、秀吉が1580年に姫路市飾磨区の英賀(あが)城を攻めた際、落城したとされます。

 長谷山城を築城したとされる長谷川氏と最後の城主・江藤清好については、全く分かりません。ただ広瀬氏は、赤松円心の長男・範資の四男・師頼が後に姓を改め「広瀬氏の祖」となりますが、その後は戦国の世に次々と散っていきます。

 広瀬氏の初代・師頼の後は子の頼康が継ぎ、次いで円心の次男・貞範の息子・則親が広瀬氏2代目の婿養子となり、長水城主に就きました。広瀬氏3代目の則親は1391年、山名氏による「明徳の乱」で、円心の三男・則祐の息子・赤松義則に従って山名氏と戦い、義則の弟・右馬助をはじめ、宇野氏や黒田官兵衛の妻・光(てる)の実家・櫛橋氏ら赤松系の57人が討たれましたが、広瀬則親は軍功により幕府から西播磨4郡内に恩賞を得ました。

 則親の後を継いだ広瀬氏4代目の満親の代に「嘉吉の乱」があり、満祐ら赤松氏一族は家臣とともに、たつの市新宮町の城山城で自害した際、広瀬満親も共に没しました。乱で赤松宗家は一時滅亡し、広瀬氏も没落します。長谷山城にいた広瀬師光は、時代的には広瀬満親の息子辺りと同年代と思われますが、各種ある広瀬氏の系図にも師光の名が見当たりません。

 広瀬一族は、秀吉の播磨攻めで、広瀬政氏が赤松則房の置塩城から三木城に移って討ち死にし、政氏の息子・政清は、宇野氏の居城となっていた長水城落城前に宇野政頼・祐清の親子らと城から逃れましたが、宍粟市千種町岩野辺で宇野氏と共に自害しました。

 後に西脇氏は帰農しましたが、地元の名家として続き、4代目・三郎太郎は、1427年に現在の賀茂神社に当たる賀茂大明神の社殿を建立し、戦国期の1522年には、今も残る浄土真宗本願寺派の超念寺を開基しました。さらに、子孫の太郎右衛門は、姫路城築城の際に材木奉行を務めました。その事実は、1956年に昭和の大修理で解体された心柱に名前が記されていたことから判明しました。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年5月26日放送回音声

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