中世になって山城ができたりすると、ここを拠点にした武装勢力も同じように信仰するというように、長い神社としての歴史を伝えてきたところです。
非常に興味深いのは、本殿の奥の大きな森の中に巨石がいくつかあり、その中に「鏡石」と名付けられた巨石があることです。鏡は道具として「姿を映すもの」「影を見るもの」でした。それが「かげみ」となり、なまって「かがみ」という言葉が生まれたといわれています。
鏡が本格的に使われるようになったのは弥生時代のこと。現在、我々はこの鏡の表面に太陽が映ってピカピカすることを「反射する」と科学的に言いますが、多神教の文化を持っていた古代の日本人にとっては、その最大のものが天照大神といわれた太陽神でした。遥か遠いところにある太陽がこの金属の器に乗り移ると信じ、神様が乗り移る道具とされました。先ほどの鏡石は姿を映すことはできません。「神様が乗り移る」という古代の信仰のなごりでしょう。
平安時代の記録の中にこの兵主神社が出てくることからも、日本でも最も古い時代から神社としてまつられている場所だといえるのかもしれません。
神社の名前からも戦いに強い神様という意味がくみ取れます。中世になり侍の時代になると侍たちの信仰が集まります。律令国家が動揺する時期に荘園が形成され春日部荘という荘園ができ、中世の終わり戦国のころになると各地に武将が砦、お城を築きました。ちょうどこの神社の東側に県立氷上高校がありますが、その東の山が黒井城の本丸のある山です。武将たちは戦いに勝つお祈りをするためにこの神社を信奉しました。明智光秀に打ち勝ったといわれている赤井直正の兜が伝わっています。
(文・構成=番組パーソナリティー久保直子)
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年7⽉2⽇放送回音声