斎藤利三の娘が、のちに江戸城の大奥を作った『春日局』、お福です。本能寺の変の後、山崎の合戦で明智光秀も破れ、斎藤利三も処刑されてしまいます。お福が5つになる前に、父である斎藤利三は亡くなってしまったのですが、母の実家で育てられると、のちに徳川家に乳母として務めることになります。興禅寺は、お福が生まれてから3歳まで育ったといわれているところです。
■「春日局の産湯の井」
興禅寺の本堂の西側に趣のある和風の庭園があり、池の端を通って境内の西北へ。その一角に「春日局の産湯の井」があります。
井というのは、湧き水のこと。この湧き水で、春日局=お福が産湯をつかったという伝説があります。ちょうど興禅寺の本堂の山側が黒井城の本丸で、急な黒井の山の麓にある湧き水です。この興禅寺のある場所が黒井城の城主の館があったところです。当時は今のお寺から、坂を150メートルほど下ったところに、元々のお寺「誓願寺」がありました。寺屋敷という様な呼び名が残っているようです。大きなお寺で9つも坊がありました。街道筋から来るとお寺がずっとあって、そこから坂を上がったら館があるわけですから、寺が砦替わりになって町を守っている黒井の寺町のような状況だったようです。
ところが戦国の黒井城の争奪の戦いの中にあって火災に遭い焼失してしまいます。黒井城を荻野直正(赤井)が手に入れたときに、お寺を再建したといわれています。やがて直正も亡くなり、戦国の時代が終わって平和な時代となった江戸時代、寛永3(1626)年に元の城主の館跡だった現在の場所に移すと、真言宗の誓願寺を宗派も曹洞宗とし、寺の名前も興禅寺と改めたと伝えられています。
(文・構成=番組パーソナリティー久保直子)
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年7⽉9⽇放送回音声