聖徳太子に仕えた渡来人との縁 西播磨歴史絵巻(19)「『中国行程記』から(8)大避神社」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第19回のテーマは「『中国行程記』から(8)大避神社」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 萩藩が残した絵図『中国行程記』を基にしたシリーズの8回目です。『行程記』は一般の旅人向けのガイドではありませんので、あくまで萩藩の、主として参勤交代の際に便利なように工夫が凝らされています。例えば、赤穂城下は、あっさりと参考程度にしか書かれていないのに対して、坂越港はかなり詳しい情報が盛られていたりします。

 坂越の港の前には大きく生島が描かれているのは当然として、鍋島を「小島」と記しているほか、蔓島・君島・高島・江島などの小さな島もきっちり拾っているのには驚きです。ただし唐荷(からに)島を片仮名で「カラミ島」と表記されているのは間違いだと思い、念のため調べてみると、辛い味と書く「辛味島」もあり、逆に驚きました。

 現在は酒造業を営んでいる当時、本陣だった奥藤家の近くには坂越浦会所があり、大避神社が赤い鳥居とともに大避大明神と記されています。この神社は平安中期の神社リストである「延喜式」の「神名帳」に記されている古社で、秦河勝を祭っているとされます。河勝は聖徳太子に仕えた渡来人で、太子から授かった仏像を安置するため622年、京都市右京区太秦に真言宗の広隆寺を建立し、秦氏の族長として勢力を誇りました。

 その秦河勝が赤穂・坂越とどんな縁があるのでしょうか。伝えられるところでは、聖徳太子の没後しばらくした7世紀中頃、政敵となった蘇我入鹿から排斥された河勝は、大阪の難波津から船で逃れて9月12日、生島に漂着し、この地で没したとされます。古くは毎年この日に秋祭りが行われていましたが、明治以降は1月遅れの10月12日となり、最近は10月の第2日曜へと祭礼日が変わりました。赤穂市有年にある大避神社は坂越の分社です。

 坂越・大避神社の祭りは、瀬戸内海三大船祭りの一つとされ、赤組・黄組の櫂伝馬、つまり櫂で操作する小型の和船を先頭に獅子船をはじめ、頭人船・神輿船・議員船・歌船の順に船渡御が行われ、勇壮な掛け声と共に生島のお旅所に向けて進みます。『行程記』にもお旅所の赤い建物が描かれ、「その建物に続き、長さ15間(27メートル余り)ほどの回廊があり、雑木が山のように茂っているが、お旅所の前の浜は広い」との説明があります。

 生島は周囲1.6キロほどの無人島で、北の端にお旅所と鳥居と船倉があるだけです。鳥居は江戸中期の1719年に地元の妙見寺の僧侶が建てたと言われています。船倉には船渡御に使われる和船6隻が納められ、すべてが県の民俗文化財となっていて、島の大半を覆う原生林は1924年に天然記念物に指定されました。原生林の中には秦河勝のものとされる墳墓もあります。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年8月11日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年8月11日放送回音声

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