龍野・揖西郡に丸亀藩の飛び地 西播磨歴史絵巻(21)「『中国行程記』から(10)室津道・馬場宿」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第21回のテーマは「『中国行程記』から(10)室津道・馬場宿 」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 たつの市揖保川町の正条宿が栄えたのは、揖保川を越える「渡し場」に加え、港に至る「室津道」への分岐点だった事実も寄与しています。西国諸藩は江戸への参勤交代の際、陸路に加え時折、海路も使っていました。海路の方が楽ですが、風向きや天候・気象条件に左右される船は、常に使えるわけではありません。

 それでも江戸時代を通じて参勤交代の寄港地となった室津は大いに栄えました。その港と西国街道を結ぶ室津道は、古く奈良時代から幹線道路として存在感を示します。特に中世後期には、播磨守護の赤松氏を中心に、やがては守護代だった浦上氏が下剋上を演じた舞台も、この界隈でした。

 室津道を東から南西へとたどると、正条宿から揖保川に沿って下り、支流の馬路川を渡った辺りから、四国の丸亀藩の領地に入ります。付近一帯は龍野藩領なのですが、同じ播磨にも遠くの藩の飛び地がありました。有名な所では、幕末から明治期に活躍する大鳥圭介を輩出した上郡は、尼崎藩の飛び地でした。現在のたつの市の一部、揖西郡など1万石を丸亀藩・京極氏が支配していました。

 京極氏は龍野藩主から丸亀藩に国替え後、龍野が幕府直轄領となるのをいいことに、「城を解体して、建材から石材に至るまで残らず赴任先の丸亀まで持っていった」との多少“尾ひれ”の付いた話で知られます。同じ6万石での移封でしたが、丸亀では5万石しか確保できなかったためか、不足分の1万石を前任地・龍野で、飛び地として確保したわけです。龍野を去るときの京極氏の行動を知る龍野・揖西郡の住人は、さぞやりきれない思いだったに違いありません。

 室津道は揖保川町袋尻で揖保川から離れ、南に向かうと、堤防脇に小さな祠があり、その前に「丸亀藩使者場跡」の標柱が立っています。揖保川町片島にあった龍野藩の「片島使者場跡」と同じで、こちらは丸亀藩の使者が参勤交代で街道を通る大名一行に挨拶をした場所です。『行程記』は、中世の山城にも触れていて、丸亀藩使者場跡の西の山を「梶山ノ城」と記しているのは、揖保川町市場の梶山城ではなく、袋尻の伝台山城を誤ったと思われます。この街道沿いの山城は、室津にある室山城でゴールとなるのですが、御津町南部の播磨灘沿岸には、基山・武山・伊津・雛山などの山城が張り付いています。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年8月25日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年8月25日放送回音声

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