兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第28回のテーマは「『中国行程記』から(14)大灯国師生誕地 」です。
「室津道」から元の西国街道に戻り、たつの市揖保川町正条から揖保川を渡り東へと向かいます。たつの市揖保町門前の宝林寺の前に「大灯国師生誕地」の石碑があります。大灯国師と言えば、京都市北区の大徳寺を開山したことで知られる高僧です。宝林寺は、石碑の通り大灯国師生誕の地と伝えられます。江戸中期の1738年に大徳寺から尼崎にある広徳寺の住職・万仭(まんじん)を遣わして龍野藩主・脇坂安興(やすおき)に出願し、宝林庵を建立しました。『行程記』の有馬喜惣太が通ったのは、宝林庵が出来て四半世紀を経た頃と思われます。その後、明治14年に庵が大破し再建したのを機に庵号を改め宝林寺としました。
宝林寺辺りで生まれた大灯国師は、正式には宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう)という鎌倉末期の臨済宗の僧です。たつの市揖保町辺りを本貫とする豪族・浦上一族の浦上一国を父に、赤松円心の姉を母として生まれました。11歳の時、姫路の書写山円教寺に入り、天台宗を学んだ後、禅宗に目覚め、京都や鎌倉で修行を積み、30代半ばに母の弟・円心の帰依を受け、京都・洛北の紫野に建立したお堂が大徳寺のルーツとされます。
大灯国師の名声はますます上がり、花園天皇も帰依し、1325年には大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。1336年ごろ、後醍醐天皇から大徳寺に下総国の替え地として、国師ゆかりの播磨国浦上荘を寄進された際、その半分を浦上一族に分配する許可を申し出ると天皇は承認し、浦上為景にその旨を伝えました。浦上荘の半分地頭職を得た浦上氏は後に赤松氏被官となって守護代や侍所所司代などを務め、室町期から戦国時代にかけて西播磨で勢力を伸ばしていきますが、円心の姉の息子、つまり円心の甥である大灯国師さまさまでした。
浦上氏は赤松氏の配下として活躍し、特に赤松本宗家断絶後の復活に際しては、立役者の政則を助けました。しかし、やがて下剋上の嵐の時代にあっては、政則の養子・赤松義村を浦上村宗が殺害に及ぶ、まさに骨肉の争いを演じようとは、大灯国師は夢にも思わなかったでしょう。1337年、国師は病に伏しましたが、花園法皇の求めに応じて、法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄(かんざん・えげん)を推挙しました。また、法皇が花園の離宮を禅寺とするにあたり「正法山(しょうぼうざん)妙心寺」と命名し、同年12月22日、国師は死去しました。妙心寺では、この年を開創年とし、慧玄が開山となっています。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年10月13日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年10月13日放送回音声