釈迦・薬師如来坐像など国重文の宝庫 西播磨歴史絵巻(31)「『中国行程記』から(17)斑鳩寺」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

釈迦・薬師如来坐像など国重文の宝庫 西播磨歴史絵巻(31)「『中国行程記』から(17)斑鳩寺」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第31回のテーマは「『中国行程記』から(17)斑鳩寺」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 西国街道を西から東へ揖保川を渡り、さらに林田川を越えると斑鳩寺と共に栄えた太子町の鵤宿です。参勤交代の大名らも本陣に泊まった宿場ではありましたが、あくまで門前町で宿駅の機能はありませんでした。しかし、鵤宿のにぎわいぶりは、江戸期に訪れた多くの旅人の文章からうかがえます。例えば、1802年に尾張の商人・菱屋平七の『筑紫紀行』に「いかるがの村、人家十文字に町をなして五、六百軒あり、入り口に聖徳王寺あり、寺内に三重の塔あり、門前に茶屋多し」。斑鳩寺が聞き慣れない聖徳王寺とあるのも歴史を感じさせます。江戸前期の福岡藩の儒者・貝原益軒の『東路記(あずまじのき)』にある「町はきれいな家が多く、豊かな商家ばかりだ」という繁栄も幕末には徐々に寂れました。

 では町の発展の礎となった斑鳩寺の歴史をたどりましょう。伝承によれば、606年に聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国揖保郡の土地360町歩を賜ったのを機に、斑鳩(鵤)荘と命名し、伽藍一つを建立したと伝えます。しかし、史実的には平安中期の1039年ごろの創建と考えるのが自然で、太子が帝に法華経を講義した年に奈良県生駒郡斑鳩町の大和・斑鳩宮から当地に移ったとする伝承には疑問が持たれています。

 創建については新旧の説に430年以上の開きがありますが、11世紀中頃には七堂伽藍のほか数十の僧坊を誇る大寺院となっていました。しかし室町後期の1541年4月、戦火によりことごとく灰燼に帰しました。この戦いを漠然と「赤松氏と山名氏の争い」としたり、具体的に「尼子政久の播磨侵入後の混乱」としたりする表記も見られますが、尼子政久は、その23年も前までに没しているためあり得ません。恐らく政久の嫡男・尼子晴久が播磨を攻めた戦禍と思われます。

 後に龍野城主の赤松政秀と子・広英(秀)、さらには、たつの市誉田町福田笹山にあった楽々山円勝寺の昌仙法師らの発願で徐々に復興への道をたどります。聖徳宗総本山法隆寺の支院から天台宗へ改め、再興を果たしました。安土桃山時代になると豊臣秀吉から300石を寄進され、続く江戸期には歴代将軍の御朱印地にもなり、門前町として発展していきました。今に引き継がれる文化財も多く、国の重文だけでも三重塔のほか、いずれも木造の釈迦如来坐像、薬師如来坐像、如意輪観音坐像、日光・月光菩薩立像、十二神将立像 8躯、それに紺紙金泥釈迦三尊十六羅漢像 5幅、絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図など、まさに宝庫です。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年11月3日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年11月3日放送回音声

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