兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第32回のテーマは「『中国行程記』から(18)太子の膀示石」です。
太子町鵤の斑鳩寺周辺には聖徳太子ゆかりの遺跡がいろいろあります。606年に太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国揖保郡の土地360町歩を賜って命名した斑鳩(鵤)荘の地名が今も息づきますし、賜った荘園の範囲・区画を示すために置かれた膀示石(ぼうじいし)も、しっかりと現存するのは驚きです。
高さ1メートルほどのごつごつした大きな石が、全国的にも類例のない荘園膀示石として貴重で、兵庫県の史跡に指定されています。1329年の『鵤荘絵図』には計11カ所描かれていますが、現在は4カ所に5個が確認されています。地元では「聖徳太子の『投げ石』『はじき石』」、また単純に「お太子さんの石」とも呼ばれ、「触れたり動かしたりするとたたりがある」とされます。「太子が近くの海抜165㍍の檀特山から石を飛ばして荘園の境を決めた」との由緒も伝わります。
聖徳太子が生きていた古代から700年もたった中世の荘園絵図にも「太子ゆかりの膀示石」が描かれている背景には「太子信仰」があります。太子に関する伝記は既に『日本書紀』に見えますが、『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』は、古い伝承に加え、多くは平安期に作られました。信仰が拡大するのは、平安中期に『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』が編まれ「救世(ぐぜ)観音の化身」として物語られたのがきっかけです。鎌倉期には、多くの仏教教団が太子を「日本仏教の祖」に位置付け、崇め追慕した結果、宗派や身分を超えて信仰が全国に広まりました。中世後期には太子を守護神とし、大工や左官らの職人集団で太子講が組織され、地域によっては神社の宮座などと共に現代にも受け継がれています。
今も斑鳩寺で毎年2月に行われる、太子ゆかりの「勝軍会」を忘れるわけにはいきません。「御頭会」あるいは単に「お頭」とも呼ばれる伝統行事で、太子が対立していた物部守屋を討伐するため、奈良県平群町の信貴山で四天王に戦勝祈願をした故事に由来します。地元で選ばれた4人の児童が四天王にふんし、聖徳殿に祭られる太子十六歳孝養像と対面して礼拝します。この行事は、太子の加護を得て子供の成長を願うもので、やはり太子信仰の一つの形と思われます。
また、奈良期に聖徳太子領となり、平安期に法隆寺領となった斑鳩荘の水田には、碁盤の目のように区画した条里制遺構が見え、県の歴史的景観形成地区に指定されています。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年11月10日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年11月10日放送回音声