兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第35回のテーマは「『中国行程記』から(21)言挙阜と鼓山」です。
太子町原かいわいには『播磨国風土記』ゆかりの地名や人物が残ります。一つは「言挙阜(ことあげおか)」です。神功皇后が朝鮮出兵から戻り、皇后に敵対する勢力に兵を向ける日、「わが軍が戦いをすると言挙げ、つまり口に出してはならない」とした訓示から、地名となったと言います。また近くの「鼓山(つづみやま)」は、古代氏族の額田部連伊勢(ぬかたべのむらじいせ)と神人腹太文(みわひとはらのおおふみ)が、鼓山で争った際、鼓を打ち鳴らして戦った故事からの地名と言い、「額田部連伊勢塚」と称する立派な石碑が立っています。
先の黒岡神社の「黒岡」は『播磨国風土記』にある「言挙」のなまりと考えられています。黒岡地区の西北隅には神功皇后と夫・仲哀天皇などを祭神とする「八幡神社」が鎮座し、北西約200㍍に黒岡神社もある立地から、この辺りこそ言挙阜と言えそうです。また「原」は、神人腹太文の名残と考えられ、原集落内の鼓原大歳神社も加わって、まるごと『播磨国風土記』の世界が生きています。
塚近くに江戸中期の1755年建立の、「六十六部」を冠することもある「廻国供養塔」が残っています。諸国を遍歴する行者・六十六部に結縁(けちえん)して建立された供養塔です。六十六部廻国巡礼は、法華経を書写して全国66カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する行(ぎょう)で、この巡礼者を六十六部行者、廻国聖などと呼びました。特に鎌倉末から室町時代にかけて、行者が金銅製の経筒を経蔵に奉納したり、土中に埋納したりする事例が各地に確認できます。
廻国巡礼は近世に少し形を変え、関西でも信仰を集めていたようです。江戸期の寺請制度では原則、庶民の自由な移動は禁止されていましたが、行者は特定会所に所属すると、ある程度諸国巡礼の特権を得ていました。六十六部行者も、京都の仁和寺や空也堂などが元締となって出した免状を得て廻国巡礼を行いました。しかし江戸期には西国巡礼や国分寺巡拝などへ変化していたと思われます。
近世に入り、六十六部行者への信仰が盛り上がるのは、世情が安定する18世紀前半以降で、中世のような経筒を奉納する事例は、ほとんど見られなくなり、代わって、行者への結縁を記念する石造供養塔を建立するようになりました。1755年に建てられた太子町の「廻国供養塔」も、まさに時流に乗った結果と言え、近世の播磨の巡礼行者信仰の在り方を考える上で、重要な史料です。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年12月1日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年12月1日放送回音声