お金を払う茶店(宿のある)は、江戸時代のものでしょう。中世までの人達は竹筒を水筒にして腰にぶら下げ、のどが乾いたら飲み、良い湧き水のあるところでくむといった旅をしていました。旅人にとって、困るのは夏と冬です。カンカン照りと空風。そのため、室町の頃に主要な交通路には並木が植えられ始めました。「松並木」という言葉があるように松が植えられました。東海道の箱根の山や岡崎(愛知県)でも国道1号の近くに並行して走っている「東海道」に松並木が残っています。
戦国時代には地図や道しるべは破棄されました。地図は道を教え、迷わさないようにするものですが、戦国時代はよそから来た人を迷わさなければなりませんでした。そのため、地図や道標の石などは、戦国時代には撤去されているはずです。
そして、織田信長が天下統一をはじめると、安定した通行ができるようにと、「一里塚」を作り始めます。街道の松並木の松の間に土盛りをして、目立つように並木と違う木を植えました。これは笑い話かも知れませんが、織田信長が街道に一里塚を作り、そこに並木の松とちがう木を植えよ! 松以外の木、あまりの木、「余の木を植えよ。」と命じたと言われているんです。それを聞いた家来がおじいさんだったので、耳が遠く、「お殿さんが一里塚にエノキを植えよ!」と言っていると(聞き違えたのをきっかけに)一里塚にエノキが植えられるようになったという話があります。
山陽道の吉備路(岡山県)に古い一里塚が残っています。秀吉が担当して作ったというのですが、それがやがて江戸幕府の時代になると江戸日本橋を起点にして五街道中心に全国へ一里塚が作られていきました。
篠山では、篠山の城下から当時の「山陰街道」、篠山からいうと「京街道」に、一里ごとにこういう塚を作りました。八上の一里塚が、城下から最初の一里塚です。その東に三里ほど行ったところにある福住という宿場町にも一里塚があるということですから、一里が約4キロですので福住まで約12キロくらいでだということでしょうね。歴史に関心のある方はぜひ訪ねたい場所ではないでしょうか。
1889(明治22)年に市制・町村制が施行され、このあたりの江戸時代の村々が合わさって八上村を形成しました。八上村の中心を示す、八上村道路標もかなり傷んでいますが追分の分岐点のところに今も残っています。
(構成:久保直子)
『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2020年12⽉24⽇放送回音声