それを2週間ほど試みて感染拡大がなければ境界を接する市町村に行動範囲を広げてみる。それでまた感染拡大がみられなければ隣接市町村に接する市町村に範囲を広げる。それを重ねていけば範囲は都道府県となり、今度は都道府県で市町村で行ったことを繰り返していって地方という単位へ、そして地方同士から日本全体へと進めていく。
「遠くへ行きたい」という歌もあるくらいだから、人は遠くへ行ってみたいという習性があるのかもしれない。が、我が街から始めることの良さには地元の人のお金が地元で循環するということもある。住民が観光に出かけていってしまう地域であればこそ地元に人が循環しお金が落ち、そのお金が地域で回る効果は大きい。
勝海舟は晩年、痛烈な時局批判などを記した時事談話集『氷川清話(ひかわせいわ)』を残している。ひも解けば得られるヒントもある。明治31年(1898)ごろ刊行。海舟と交友があったジャーナリスト・徳富蘇峰が序文を記した。これをもとに、2020年8月10日~11日にもお話しした(ラジオ関西「ラジトピ」にて)ことを思い返してほしい。
幕末の安政時代に長崎海軍伝習所に派遣されていた時のこと。海軍に必要な教科を教えるためにオランダから来日した教師に「時間さえあれば市中を散歩して、何事となく見覚えておけ、いつかは必ず用がある」と教えられたと語った。海舟はステッキの頭に磁石をつけて方角を見ながら時間ができると市中を歩き回った。だから街中の様子が変わってもどこに何があったかわかるのだと語っている。
「(長崎で教わったことが)習慣になって、その後どこへ行っても暇さへあれば独りでぶらついた。それゆえ東京の市中でもたいてい知らないところはない。日本橋、京橋のめぬきのところ、芝、下谷の貧民窟、本所、深川の場末まで、ちゃんと知っている。そしてこれが維新前夜に非常にためになったのだ」
当時は有事の際に街中をよく知っていれば有利な攻撃だけでなく無事退却もできる、そんな意味を含んでいたのだろうが、自然災害が多くなった今では地震や洪水が発生した時に細かい道まで知っていれば的確な道を選んで避難できる、ということにもつながるだろう。
自分の暮らす場所を自らの目、耳で知れば、自分の言葉で他所の人たちに良さを伝えることができるようになる。新しい観光の芽生えにつながる可能性も生まれる。さてどれだけ実行できているだろうか。「出歩く」意識に変化はあっただろうか。
海舟は「政治家の秘訣はほかにないのだよ、ただ正心誠意の四字しかないよ」(誠心誠意ではない)、つまり正しい心を持ち、嘘偽りのない心、私利私欲のない心で政治を行うのが政治家であり、そうすれば国民は政府の施策におのずと従うというのだ。批判が起きるたびに迷走するから人心は揺れる。新型コロナウィルスを乗り越えたのちにどんな日本にしていくのか着地点を示し、そのために何をすべきか、国民が納得いくような『密』な議論を望みたい。