中部から畿内に侵攻した織田信長と近江国の歴史的意味を探る | ラジトピ ラジオ関西トピックス

中部から畿内に侵攻した織田信長と近江国の歴史的意味を探る

LINEで送る

この記事の写真を見る(2枚)

「長篠の戦い」に勝利後の天正4(1576)年に信長は近江国の安土に築城を開始し本拠地とします。

◆なぜ信長は近江に拠点を築いたか

 信長の本拠は濃尾平野。都は京都。その間が近江国です。京都と自分の本拠の間の近江国に拠点を置きました。近江国は当時の日本で一番大事な場所だったのです。

 汽車や自動車のない時代(の交通の要)は、舟。淀川を遡り、淀川の分岐から宇治川に入って、琵琶湖を通り、湖北から賤ケ岳を越えさえすれば、若狭湾(日本海)に出られます。

 もうひとつは、近江盆地は山に取り囲まれています。盆地から東西に行くときに東は伊吹山の麓。南に谷を越えて鈴鹿山脈があります。これが関ヶ原の地です。近江の西側には逢坂山。この逢坂山と関ヶ原のところで東西の交通路があるわけです。そうすると安土に本拠を置いた信長は、美濃と尾張から関ヶ原のところの谷あいを通って琵琶湖へ。このあたりを押さえておくと東北との中継地をおさえられます。都との中継地にもなるんです。信長はここを拠点に置いたのです。

 信頼のおける家臣、明智光秀を坂本の城主にしました。坂本は、逢坂山の東の麓。京都と滋賀県との通路の東側をおさえている場所です。

 秀吉がはじめてお城をもらったのが、近江長浜。伊吹山の西の麓。関ヶ原の西側、琵琶湖へ出たところです。

 秀吉が天下を取ったときには、信頼のおける石田三成を佐和山城の城主にしました。今の彦根市内にありますから、長浜のすぐ南東なんです。そして、家康が天下を取ったとき、のちに大老にもなる最も信頼のおける譜代大名の井伊家を同じ彦根に置いています。

 信長も秀吉も、そして家康も、歴史に名を残す武将は、地勢や土地の重要性をよく理解していたのでしょう。

(解説:田辺眞人、構成:久保直子)


『ラジオで辿る光秀ゆかりの兵庫丹波』2021年1⽉14⽇放送回音声

LINEで送る

関連記事