兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第41回のテーマは「柏原(かしはら)城(上)」です。
宍粟市山崎町金谷(かなや)石ケ谷にある柏原城は、市のほぼ南端で、たつの市新宮町奥小屋(おくごや)との境界に位置し、海抜は約490mもあります。465mの国見山の西で、西播磨の山城でも指折りの高さです。柏原城へは「国見の森」登山コースから遊鶴寺跡を経て、山の急斜面に取り付く登山道を斜めに横切って、登り切ります。やがて緩やかな尾根筋を経て城跡へと至ります。
山頂中央の主郭と思われる削平地の周りには、なだらかなU字形の堀跡が幾筋も残っています。加えて、地面を掘って切り通した水路の「堀切」と、斜面を削って人工的に断崖とした「切岸」による15m四方の出曲輪(でぐるわ)、さらには出曲輪と城内をつなぐ土橋などが残り、北尾根にも複数の堀切があります。
本拠の長水城を支える10カ所余りある出城の一つとして、重要な役割が見て取れます。しかし「街道監視」の視点からは、特に長水城の南部を防備するには「眺望の悪さ」が致命的です。つまり、南側を見張るためなら、少し低くても国見山の展望台辺りの方が適しています。にもかかわらず、展望台付近には城跡の痕跡は無く、ほとんど眺望が利かない場所に、なぜ城を造ったのか不思議です。
柏原城の立地については、山城研究家らも疑問を呈しており、中には長水城が見えることから「狼煙で連絡した」との説もありますが、直線で6kmほどしかないのに、わざわざ狼煙をたいたとも思えません。狼煙を使ったとされる、古代の朝鮮式山城間が約20kmだった事実に照らしても狼煙説には疑問が残ります。
こうした謎を考え合わせて、長水城との関係から切り離す向きもあります。この地が北の宍粟郡と南の揖保郡の境にある点、柏原城の大手道が南のたつの市新宮町奥小屋にあると考えられる点から、柏原城は「長水城の枝城」ではなく、全く逆に「長水城を見張り、攻略するために敵が構えた城」ではないか―と解釈する説まであります。では、長水城と敵対する者とは一体、誰なのでしょうか。
柏原城には不思議がまだあります。西播磨の山城に関しては、資料が乏しい中、何かと頼りになる記録『赤松家播備作城記』には触れられていない事実です。『播磨鑑』にもわずかに「柏原城 城主は早瀬帯刀(たてわき)正義居、同構居 柏原三郎頼宗」とあるだけで、築城期や所在地の記載がないのも気になります。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年1月12日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年1月12日放送回音声