兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第45回のテーマは「岡城」です。
宍粟市一宮町東市場にある岡城にも、地名や城主に由来する別名が幾つかあります。安積城は大字地名からで、宮山城は城のある山の名前によりますが、岡城は城主の岡氏が基になっていて、岡山城とも呼ばれます。築城された室町前期の1392年は、足利義満による全国統一が急速に進んでいた頃です。義満提示の講和案に従って南朝最後の後亀山天皇が退位して入京し、太上天皇の尊号を受けて、約60年続いた南北両朝が合体した年に当たります。最初の築城は赤松治部少輔教弘です。『播磨鑑』などによると、赤松教弘は円心の長男・範資に始まる赤松七条家系統で範資の曽孫です。城は息子・次郎蔵人元久から掃部介(かもんのすけ)則勝と続き、1441年の嘉吉の乱で親子共に戦死し落城しました。
17年後、赤松政則によって赤松家は復活しますが、岡城の再築城は100年近く後です。16世紀半ばの天文年間(1532~55)に至り、岡豊前守吉政がこの地に再び城を建てて居城した後、永禄年間(1558~70)に相生市若狭野町の下土井城に移り、その息子・吉一は岡城にとどまりましたが、1580年、秀吉によって宇野氏の居城・長水城が攻め落とされた際、岡城も落城したと伝えられます。
播磨一宮の伊和神社を眼下に望む宮山山頂部から三方の尾根にかけては、主郭跡と見られる石塁を備えた、東西約12m、南北約15mの平坦地を中心に、それを取り巻く帯曲輪や階段状に連なる曲輪、防御用の堀などが残っていて、岡城の軍事的な重要性を物語ります。
空白期の後に城主となった岡氏は、相生市若狭野町の下土井城主でもありました。もともと、相生市矢野町かいわいを支配する赤松系の在地領主でしたが、やがて浦上氏に従い、次いで宇喜多氏へと鞍替えして、重きをなすまでに出世します。浦上氏や宇喜多氏の家来として相応の知行を与えられました。時代が進み、西播磨一帯が、西の毛利方と東の織田方の二大勢力が、つばぜり合いを演じる戦場と化し、1579年から織田方が西播磨を支配した際、矢野荘辺りの防備を固めるため、数年後には、在地で力を持つ岡氏を織田方に取り込んだようです。
宇喜多氏の重鎮だった岡家利は1592年、朝鮮に出征中に病没しましたが、豊前守から越前守に改めた息子の岡貞綱は、宇喜多秀家と対立して徳川側に寝返り、大坂の陣で内通を疑われ、切腹しました。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年2月9日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年2月9日放送回音声