兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第47回のテーマは「高山(こうやま)城」です。
佐用町横坂の高山城は、中国自動車道佐用インターの東にそびえる山頂から少し下った海抜250m、麓からは 140mほどの高さにあります。旧長谷(ながたに)村から長谷高山城とも、またお家復活に燃える尼子勝久が1577年、上月城に入る前にこの城を居城としたため尼ケ城とも呼ばれ、さらに鴻の山城の別名もあります。西播磨の山城の大半は赤松氏一族と深く関わっていますが、機能した時代もさまざまで、全盛期の赤松円心から嘉吉の乱までの前期と、政則による復活以降、秀吉の播磨侵攻までの後期赤松氏の時代に大きく分かれます。
しかし、この高山城は、赤松円心以前で、初代を名乗った、円心の曽祖父・赤松家範より前にまでさかのぼる「最古級の赤松系山城」に位置付けられ、家範の父・則景が築城後、将則-光広の3代で絶えたと言います。確かに将則-光広は親子の関係とする系図もあるのですが、「則景に続く」のではなく、則景の父・頼範を「宇野氏の祖」と位置付け、頼範の後、為助-将則-光広-助頼と続くとする説もあります。加えて、築城した則景は赤松とは名乗っておらず、「宇野」あるいはその前の「山田」姓とするべきとの議論もあり、混乱に拍車を掛けます。
源頼朝が全国に守護と地頭を任命する権利を朝廷から得た後、実質、鎌倉幕府の体制を構築し、征夷大将軍の称号を待つばかりとなっていた1191年、赤松則景は鎌倉に出て、頼朝の下で活躍します。その結果、頼朝から佐用荘の地頭職を得て、播磨守にも任じられ、後に隠居して佐用町横板に高山城を築き始めたのが1197年と言います。一説には、もともと赤松則景の隠居城として築いた城でしたが、末の息子・家範はこの城で生まれたともされます。
則景は、多くの息子を西播磨各地に土着させて城を築かせ、地名を名乗らせました。景能は間島氏、頼景は得平氏、景盛は上月氏、有景は櫛田氏で、末の家範には、佐用から最も遠い千種川下流の赤松村に配置し、赤松氏を名乗らせました。
城跡は今「高山城ふれあいの里」として整備されており、登山道の中腹に鐘搗(かねつき)堂と呼ばれる見張り台があるほか、削平地や空堀などが残る連郭式の曲輪跡も確認できます。高山城の鐘搗堂は、尾根伝いに北東約4kmにある奥金近の高伏山(たかふしやま)長谷寺(ちょうこくじ)への参道入り口に位置付けられていたとも言います。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年2月23日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年2月23日放送回音声