高山城と同様、宇野則景が築城 西播磨歴史絵巻(48)「高倉山城」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

高山城と同様、宇野則景が築城 西播磨歴史絵巻(48)「高倉山城」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第48回のテーマは「高倉山城」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 佐用町櫛田の高倉山城は、海抜357mの高倉山の頂上付近にあります。鎌倉初期の建久年間(1190~99)に、高山城と同様、赤松氏の祖である家範の父・則景が築城したと伝えます。則景は赤松氏を名乗ってはいませんので、宇野播磨守則景と言った方がいいでしょう。則景が佐用町横坂の高山城に移った後は、弟の宇野新太夫則連ら宇野氏一族が代々城主を務めたと言います。

 高倉山城が文献に出てくるのは1390年ごろ、相生市の東寺領矢野荘の「学衆方散用状」にある「高倉城誘(こしらえ)…」のくだりです。学衆方散用状とは、寺院で教学部門を担当する僧侶の学衆方による収支決算書類です。「誘」とは築城を表すため、室町幕府第3代将軍・足利義満と山名氏による「明徳の乱」に関わる動きとされます。この乱から約半世紀後、1441年の嘉吉の乱では、赤松氏追討の命を奉じた山名持豊が、上郡町にある赤松氏の本拠・白旗城を攻めるため、高倉山城に陣を置いたとも、あるいは同族の山名教清(のりきよ)が美作方面から攻めてきたとも伝え、この時点でいったん廃城となりました。

 その後、赤松氏の復興とともに赤松氏一族がこの城を修築したようで、1577年に秀吉が佐用郡へ攻め込んだ時は、赤松満祐の甥・則尚(のりなお)の娘婿・福原主膳助就(しゅぜん・すけなり)が守りましたが、助就は討ち死にし、高倉山城は秀吉勢に渡りました。上月城を西に見て、北には福原(佐用)城があり、高倉城から仁位山(にいやま)城へ向かう尾根筋にも転々と曲輪が築かれていたため、上月城攻略の拠点としては絶好の場所でした。

 羽柴秀長や荒木村重が守りましたが、上月城落城後は尼子氏一統の山中鹿介に任せ、翌1578年、再び秀吉勢が整備した高倉山城に黒田官兵衛や竹中半兵衛らもはせ参じ、毛利軍に包囲された上月城を援護しましたが、結局は尼子氏を見捨て、急を要する三木城攻めの方に向かった結果、高倉山城は落城し、そのまま廃城となりました。現在の城跡は秀吉時代のもので、山頂の主郭を取り囲む数段の削平地が東西約200mあり、南東へ延びる尾根先には巨大な堀切で切断した曲輪が続き、全体で東西約350mの曲輪群から成っています。主郭面積は広いものの削平がやや甘いのは急ごしらえの陣城だからです。尾根沿いの寺院跡は15世紀半ば以前で、鐘撞堂・御坊下・観音峰などの地名は、お寺の証しです。本尊は佐用町下本郷の済露山高蔵寺(こうぞうじ)に安置されていると伝えます。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年3月2日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年3月2日放送回音声

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