千種川を挟み東西約1kmに立地 西播磨歴史絵巻(50)「飯の山城と櫛田城」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第50回のテーマは「飯の山城と櫛田城」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 佐用町久崎にある飯の山城と櫛田の櫛田城です。飯の山は飯野山とも書きます。智頭急行「久崎駅」から北へ約600メートル、久崎小学校裏の大避神社の先、海抜230メートルで、麓から160メートルほどの、四方が急峻な山頂に築かれています。西に佐用川、東には千種川が流れる立地は水運の要衝にあり、郡内の産物が高瀬舟で赤穂市の坂越港に運ばれました。陸路も因幡・美作の両街道につながる赤穂街道が延び、宿場町でもありました。この拠点を見張り押さえたのが飯の山城でした。

 城主は赤松氏家臣の間島氏と、間島一族の太田氏が交代で務めました。最初は、平安末期の嘉応年間(1169~71)に吉屋八郎宗達が築いたと伝え、これが事実なら佐用町最古の城跡となります。築城から80年ほど後の鎌倉中期、13世紀半ばの建長年間(1249~56)に今度は間島景能が修築したともされます。景能は、初代赤松氏を名乗った家範の兄で、佐用荘の地頭職を得た宇野則景の長男とされます。則景の子は間島氏と赤松氏のほか、得平・上月・櫛田の各氏が活躍しました。ただ伝承の、間島景能を「上月城主・得平頼景の孫」との位置付けは納得しかねます。間島氏の系譜は不明ながら、赤松満祐が起こした「嘉吉の乱」に際し、飯の山城主だった間島新三郎が、たつの市新宮町の城山城で満祐ら赤松家一統と共に討ち死にしたと伝え、これで間島氏は滅亡、飯の山城も廃されました。

 前期赤松氏滅亡から130年ほど後の1578年、尼子氏再興に燃える山中鹿介らと共に、尼子勝久が立てこもる上月城を毛利氏が攻め、勝久を自害に追い込んだ「第3次上月合戦」の際、毛利方にくみしていた間島右馬助祐貴が一時、上月城にいたともされます。とすれば、いつしか間島氏は復活していたことになります。

 飯の山城は、南端から北西先端まで400メートルも曲輪が続く大きな構えで、南端に土橋の架かる堀切があり、東西両側面には竪堀も付いています。北の尾根は自然地形ながら二重の堀切が備わり主郭を形成、仁位山城や高倉山城につながります。ここに犬走りが巡り、西はスロープ状の虎口、北東側面は竪堀が続きます。

 櫛田城は千種川を挟んで飯の山城の西約1キロメートルと程近い、海抜130メートルほどの山頂にあり、13世紀半ばに得平三郎頼景の子・源太兼則の三男・有景が築城し、地名から櫛田八郎有景を名乗りますが、1577年、櫛田左馬助頼久の時、秀吉により落城。階段状に回る帯曲輪が残り、八幡神社から宮山城とも呼ばれます。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)

※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年3月16日放送回より


ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年3月16日放送回音声

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