兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第51回のテーマは「熊見城と徳久城」です。
佐用町米田の熊見城と東徳久(とくさ)の徳久城です。旧南光町内で主従関係にあります。熊見城は、赤松氏の本家筋に当たる宇野氏の発祥地とされ、徳久城は熊見城の北側を守る枝城でしょう。熊見城は米田城とも宇野城とも呼ばれ、千種川と志文(しぶみ)川に挟まれ、北側は絶壁で自然の要害になっています。
宇野氏は村上源氏の末裔で、山田入道頼範の子・将則(または為助)が宇野氏の直接の祖とされ、宇野将則は佐用町米田にあった宇野荘を拠点に力を付け、鎌倉初期の宇野頼景(または則景)が佐用荘に地頭職を得ました。源頼朝の正室・北条政子の弟・義時の娘をめとって格を上げましたが、後に分家筋の赤松氏に従い、宍粟市山崎町の長水城を拠点にしました。
熊見城は、何度も戦火に巻き込まれ、1441年の嘉吉の乱で、美作方面から山名教清(のりきよ)の攻撃で落城後、1474年、今度は山名政豊に攻略されました。後に赤松一族の得平氏が居城した時代、後期赤松氏2代目の置塩城主・赤松義村との同士討ちで落城、さらに1538年、宇野祐清の時、出雲の尼子晴久に敗れて従いましたが、30年近く後の1567年には、尼子氏が居城していた上月城が毛利氏に攻められて落ちたため、祐清は熊見城を見限り、山崎町の篠ノ丸城へ逃げた結果、廃城になったという、まさに「戦いの城」でした。
熊見城の北の守り・徳久城は、海抜380メートルの山頂にあり、千種川東岸の殿崎集落の東にそびえています。尾根筋には堀切・竪堀に加え、小規模の曲輪が10余りあり、山頂部に縦12メートル横21メートルほどの主郭が残ります。『赤松家播備作城記』では、城主の柏原(かしはら)弥三郎為永が鎌倉初頭の建保年間(1213~19)に築いたとあります。柏原為永は宇野氏から出て、父・頼宗が宍粟市山崎町金谷(かなや)の柏原城主だった縁で柏原氏を名乗り、子・永利の時に嘉吉の乱で山名氏に滅ぼされたと伝えます。しかし徳久城築城から嘉吉の乱までは220年以上あるのに、柏原氏は頼宗・為永・永利の3代しかないのは不思議です。乱から140年近くを経た1577年、間島景綱が城主の時、秀吉に攻略され廃されました。
徳久城は、柏原氏が城主を務めた縁で柏原城とも呼ばれますが、山崎町にある同名の山城と混乱する上、かつて徳久辺りにあった荘園は柏原(かしわばら)荘ですので、一族も城の名も本来は「かしわばら」と発音するべきかもしれません。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年3月23日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2021年3月23日放送回音声