できることから… 「一日作さざれば一日食らわず」の意味を考える ラピス和尚の辻説法 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

できることから… 「一日作さざれば一日食らわず」の意味を考える ラピス和尚の辻説法

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 『ラピスモーニング』(ラジオ関西)で、神戸大倉山・楠寺瑠璃光苑の住職、「ラピス和尚」さんの楽しい仏教うんちくを届けています。日頃なにげなく使っている言葉が、思いもよらない“ふか~い”意味を持っているもの。そんな感動をラジトピで連載していきます。5月9日放送回の辻説法は、「一日作(な)さざれば一日食らわず」です。

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◆本日の辻説法
「一日作さざれば一日食らわず」

 これは百丈懐海(ひゃくじょう えかい)という禅僧の言葉です。

 まず百丈懐海についてお話しましょう。749年、中国の唐代の禅僧で、いまの福建省(福州長楽県)出身。幼くして出家し、師匠の没後は江西省の百丈山に寺院を建立しました。

 インドから伝わった仏教の伝統として、僧団は、托鉢(たくはつ)や布施によって修行をおこなってきましたが、百丈和尚は農作業など労働して自ら作物をつくりだすことを修行の一環とし、田畑に鍬を入れ、自給自足の生活を行うようになったのでした。

 さて、そんな百丈和尚は80歳になっても畑仕事に大いに精を出していましたが、お弟子さんたちはケガでもされては大変だと気をもんでいました。再三のお願いにもかかわらず、一行に畑仕事をやめない百丈和尚に困り果て、ある日弟子たちは鍬や鎌を隠してしまうのでした。

 その日から部屋に戻った百丈和尚は、いっこうに食事を取らなくなり、その時に出た言葉が「一日作さざれば一日食らわず」だったのです。

「働かざる者食うべからず」ではありません。“自分のなすべきことをすることができなかったから食事をいただくに値しない”ということであり、仏のために働けなかった日は食べることができないという、自分への責任から生まれた言葉なのです。

 コロナ禍のいま、みんなが我慢を強いられている状況ですが、あきらめずに自分の生活を美しく保つ努力をしませんか? 目についたホコリを取るだけでもいい、できることからはじめていきましょう、というお話でした。


※街で見かける伝導掲示板やあなたの知りたい仏事へのご質問もお待ちしています。
ラジオ関西『ラピスモーニング』(lps@jocr.jp)まで。

【ラジオ関西『ラピスモーニング』公式サイト】

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