岡田彰布氏、憧れだった早大進学&ドラフト秘話語る 自身の今後は「野球から離れるにはまだ早い」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

岡田彰布氏、憧れだった早大進学&ドラフト秘話語る 自身の今後は「野球から離れるにはまだ早い」

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 阪神・オリックスOBの岡田彰布氏が10日に放送されたラジオ番組『としちゃん・大貴のええやんカー!やってみよう!!』(ラジオ関西)にゲスト出演。これまで歩んできた道のりを明かしたほか、野球人としての今後の抱負を語った。

写真左から、フリーアナウンサーの田中大貴、岡田彰布氏、林歳彦氏(会社経営者・環境活動家) ※撮影時にマスクを外して対応(写真:ラジオ関西『としちゃん・大貴のええやんカー!やってみよう!!』)

 大阪市出身の岡田氏は、阪神の後援者だった父の影響で、「村山(実)さんや藤本(勝巳)さんと、食事とか一緒に小さいときに行ったことがあった」そう。「それで当然、阪神ファンだった」。小学生時代、地元が大阪球場に近いこともあって、「南海ホークス子供の会」「リトルホークス」に入っていたというが、その当時、テレビ中継で早慶戦を観たことから早稲田大学に憧れを抱いたと振り返る。

 早大を念頭に、中学は大阪・天王寺の明星中学校に進み、そのまま明星高校に上がると思いきや、高校は北陽高校を選択。私学7強時代といわれた大阪で、そのなかに明星高校も入っていたなか、ライバル校への進学は異例のことだった。北陽高でも「早稲田に行く」ということが将来の進路の第一条件であり、高校1年生から家庭教師をつけて勉学に励みながら、野球でも研鑽を積んだ。その結果、プロのスカウトも高校にやってきたほどの実力だったが、「早稲田へ行くため、高校からプロにはいかない」と決意は固かった。

 高校3年時、甲子園に出場できなかったこともあり、8月の半ばに、高校の監督のつながりを通じて早大のセレクションを受けに行ったという岡田氏。合格は、発表を観に行く新幹線の車中で、自宅の母から連絡を受けて、初めて知ったそう。「おふくろはどの新幹線に乗っているかわかるから、その新幹線に電話をしてきて、『今、野球部から電話があって、合格しましたという通知が来た』と言っていた」。当時のことを振り返り、「プロ入りしたときよりもうれしかった。落ちたら浪人するつもりだったから」と、感慨ひとしおだったようだ。

岡田彰布氏(写真:ラジオ関西『としちゃん・大貴のええやんカー!やってみよう!!』)

 早大では東京六大学リーグで数多くの伝説的な記録を残している岡田氏。通算最高打率3割7分9厘、通算最多打点81は、いまだに破られていない。そのほかにも、昭和53(1978)年春にサイクルヒット、昭和53年秋に三冠王を達成しただけでなく、通算安打は117本(歴代7位)、通算本塁打は20本(歴代4位)と、偉業づくしだ。

「早稲田を経験したことが、プロに行ってからもずっとプラスになっている」と語る岡田氏。その活躍もあり、1979(昭和54)年のドラフト会議では6球団が1位指名し、意中の球団である阪神が交渉権を獲得したが、当時のドラフト会議について、岡田氏はこんなエピソードを明かす。

「ドラフト前夜、寮に電話が来た。そしたら『巨人軍の長嶋(茂雄)です。わが巨人軍は明日ドラフト会議であなたを1位指名します』と言われて。さらに同級生の島貫(省一)にも電話を代わるように言われて、島貫には『明日あなたを3位で指名します』と言っていたよう。でも、翌日のドラフト会議で巨人からの指名がなかった。あの電話はなんやったんやろうなと……。さらに、(当日の)電話の主は分からないが、島貫が巨人にドラフト3位で指名されたというデマが広まっていたみたいで、カメラマンに島貫と一緒に写真まで撮ってもらってたんだけどね。それで、島貫が会場から行方不明になってもうて、監督に『探せ』と言われて探してみたら、新宿で巨人のスカウトとしゃぶしゃぶ食べてた(笑)。その島貫はドラフト外で巨人に行った。当時はドラフト外での入団が多かったんよね」

 2週にわたり、番組では様々な秘話を披露した岡田氏。今後について、「ユニフォームとか着る機会があれば。歳もけっこういっているが(※今年11月25日で65歳に)、野球から離れてゆっくりするにはまだ早いと思っているから。もうちょっと野球関係の仕事をしてみたいね。まだまだ元気だから」と、野球人生を歩み続ける意思を表明していた。

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としちゃん・大貴の ええやんカー!やってみよう!! | ラジオ関西 | 2022/10/10/月 19:30-20:00

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