「侍女の手紙は門番を通して」「10歳以上の男子は台所での食事不可」 秀吉の掟書など114点を展示 大阪城天守閣「豊臣大坂城史」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

「侍女の手紙は門番を通して」「10歳以上の男子は台所での食事不可」 秀吉の掟書など114点を展示 大阪城天守閣「豊臣大坂城史」

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 豊臣秀吉が天下統一、国政の拠点とし、「日本一堅固な城郭」と称された大坂城。豊臣家の権勢と栄華の象徴であった大坂城の激動の歴史をたどる「テーマ展 豊臣大坂城史」が大阪城天守閣(大阪市中央区)で開かれている。5月7日(日)まで。

天守閣天守閣
天守閣天守閣

 展示は、秀吉時代以前の16世紀前半、浄土真宗の本願寺が同地で織田信長と戦っていた頃の「序章」に始まり、秀吉、秀頼の居住期、大坂の陣、徳川幕府による再築と、年代順に構成。文書や肖像画、ゆかりの品々など初公開品を含む計114点(前・後期合計)の貴重な資料が並んでいる。

展示の様子
展示の様子

 今展の目玉の1つは、掟書や書状などの文書。秀吉が没する前年の1597(慶長2)年に発行された「豊臣秀吉朱印掟書」には、城内の侍女たちが外部と手紙をやりとりする場合、門番の老臣を通すこと、上級の侍女が外出する場合は、ベテランの侍女が付いて門番に引き渡さなければ通れないこと、10歳以上の男子は台所で食事をさせてはいけないなど、秀吉による厳しい制限がつづられている。

「豊臣秀吉朱印掟書」【大阪城天守閣提供・転載禁止】
「豊臣秀吉朱印掟書」【大阪城天守閣提供・転載禁止】

 大坂城二ノ丸を造った工事の際、秀吉が出した石材の採取や運搬に関する掟書「豊臣秀吉朱印大坂築城定書」(1586[天正14]年)には、石運び人に対して「石に自分のしるしを付けても無効」であるが「一町(約100メートル強)ほど運べば、運んだ者の石として認定する」、大きな石を運搬する場面に出会った場合は「どんな身分の者でも道を空けなければならない」などの決まり事が記されており、築城に伴う石の調達が重要視されていた状況がよく分かる。

「豊臣秀吉朱印大坂築城定書」【大阪城天守閣提供・転載禁止】
「豊臣秀吉朱印大坂築城定書」【大阪城天守閣提供・転載禁止】

 大坂城を築くのに、秀吉が以前いた城の材木も利用されていたことが推察できる書状も。「羽柴秀吉書状」(1583[天正11]年)で秀吉は、「姫路(城)から取り寄せる『家材木』の船が届かない。早く手配して届けろ」と命じている。同様に、秀吉が長浜城の材木を取り寄せたとみられることが分かる書状(1584[天正12]年)もある。

 一方、秀吉の死後、家老として豊臣家を支えた片桐且元が堺奉行に出した「片桐且元書状」(1599[慶長4]年)には「しゅろぼうき10本、いかにもよいものを上納しなさい」と記載。当時の大坂城で、ヤシ科の高木、しゅろ製のほうきが掃除に使われていた日常が分かり、興味深い。

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