ツトム・ヤマシタ氏の父は、太平洋戦争後、京都で全国に先駆けて、中学校のクラブ活動に吹奏楽を取り入れた山下清孟(きよはる)氏。その後清孟氏は空海が開いた日本最古の私学とされる綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の流れを汲む洛南高校吹奏楽部を全国有数の吹奏楽部に育てあげた。
こうした縁で、ツトム・ヤマシタ氏は1984(昭和59)年にも、東寺で営まれた「弘法大師入定(没後)1150年御遠忌」で奉納演奏している。この演奏は、神社仏閣での音楽奉納や記念イベントの先駆けとなった。当時の日本では、こうした“コラボレーション”は非常に珍しかったという。
御影堂は、平安京の遺構を伝える東寺の広大な境内で、大伽藍の建ち並ぶ区域から北西に少し外れ、築地(ついじ)で囲まれた一角にある。
空海の住房とされ、“ 密教彫刻の傑作”と名高い講堂の立体曼荼羅を構想し、造営工事の指揮を執ったという。
東寺では足かけ15年にわたり、境内一円の史跡や築地塀、絵画、彫刻、工芸品、古文書の修理に取り掛かった。総修理件数は30点、御影堂も4年にわたり修理を施した。
特に御影堂は屋根の檜皮の葺き替えのほか、装飾品の錺金具(かざりかなぐ)や建具を修復した。京都市文化財保護課によると、床下の解体調査時には、複数枚重ねられた近世の土師器の皿,近世以降の多くの銭貨も見つかった。
結願法要では、これらの修理をすべて無事に終えたことを、40人の僧侶がサヌカイトの響きとともに、御影堂の弘法大師像に奉告した。