【橋本】 すごい! みんな知っている曲じゃないですか。三島さんといい、野坂さんといい、作家業以外の才能もすごいですよね。
【中将】 特に野坂さんは振れ幅がすごいですよね。歌手も作詞家もタレントもなんでもやる。作風も子ども向けのキラキラしたものからエログロみたいなものまでやっちゃうんだけど、そういう矛盾や多面性って僕はアーティストとして共感できます。
【橋本】 最近、二足も三足もわらじをはいて成功するアーティスト、タレントが増えていますが、野坂さんのような方がその道を切りひらいてこられたのかもしれませんね。
【中将】 そうですね。はっきり言って昭和の文学界で三島さん、野坂さんのバイタリティーは異常です。今回の台本を書くにあたり、もともと知っていたものに加えてどんな作家の曲があるだろうと調べたんですが、ほとんど見つからない。でもやっぱり昭和の時代に歌っていた作家って面白い人ばかりだと気付きました。
次にご紹介する曲も濃厚な方のものです。石原慎太郎さんがペギー葉山と歌った『夏の終わり』(1991)。このバージョンがレコーディングされたのは平成に入ってからですが、もともとは弟・石原裕次郎さんに提供した楽曲ですね。慎太郎さんは若い頃からジャズに造詣が深く、作詞家として裕次郎さんの『狂った果実』(1956)やジャニーズの『焔のカーブ』(1965)など数々のヒット曲を手がけています。変わったところではジャスコの社歌なんかもそうです。
【橋本】 石原さんって昔、東京都知事だった方ですよね……。テレビで見た記憶がぼんやりあるくらいで、作家や作詞家としてのご活動は全然知りませんでした。
【中将】 びっくりしちゃうけど、菜津美ちゃんくらいの世代になるとそうなのかもしれませんね。今の若い世代の人たちには石原良純さんのお父さんと言うほうがわかりやすいかもしれません(笑)。
【橋本】 たしかにそれがわかりやすいです(笑)。
【中将】 人生の後半は政治家としてのご活動がメインだったので、作家としてのイメージがぼやけてしまいがちかもしれません。でも慎太郎さんは1950年代後半から1960年代にかけて若者のオピニオンリーダーのような存在でした。デビュー作『太陽の季節』では湘南あたりのお金持ちの間で盛り上がっていた「太陽族」という不良カルチャーを全国に普及させたと言われていますね。
【橋本】 お金持ちだからこそ生み出せるカルチャーって確かにありますよね。この曲からもそんな空気を感じます。
【中将】 フォークとかと違ってお洒落でネアカな感じがありますよね(笑)。石原さんも政治家なんかやっちゃうくらいだから、出たがりで自分の思想を社会で実現したいというタイプの方だったと思うんですが、作家としては珍しいタイプですよね。
さて、次は、なかにし礼さんの『時には娼婦のように』(1978)。
【橋本】 初めて聴きましたけど、これもすごいインパクトです……!
【中将】 これも爪痕を残そうという感じがありますよね(笑)。黒沢年雄さんが歌いヒットした『時には娼婦のように』ですが、作詞を手がけたなかにしさんも自ら歌っていて、同時リリースの競作でした。
【橋本】 作った本人と競作って珍しいパターンかもですね!
【中将】 もともとは、当時フォーライフレコードの社長だった吉田拓郎さんが作詞、作曲、歌唱を条件になかにしさんにアルバム制作を依頼したことが始まりでした。それでできあがったアルバム『マッチ箱の火事』からのシングルカットされたのがこの曲。作詞家として一世風靡し、この頃には作家、タレントとしても注目されていたなかにしさんですが、その人にアルバム1枚丸ごと作らせるって、すごい企画ですよね。当時、人気スターだった黒沢さんと競作というのも巧みです。保険をかけるじゃないけど、「記念すべき曲だから絶対外したくない」という気持ちはあったんじゃないでしょうか。
【橋本】 見事に当たってますしね。しかも作詞作曲しているから、どちらの印税も……(笑)。
それにしても、今回の曲はどれも色濃かったです! 文豪たちの秘められた承認欲求をひしひしと感じました。歌って小説を読んでいるだけではわからない一面が伝わってきますね。