ラジオ関西の取材に対し、「被災者一人ひとりが、その人でないと語ることができない辛さがある。そんな気持ちを心にしまって生きている」と語るかよのさん。
そして、「祖父が大好きだった神戸の街にやっと名前を残せた。パンとコーヒーが大好きだったハイカラじいちゃん。景色が変わりゆく神戸の街で、また会いたい」と話す。
かよのさんは画家として、復興する神戸の街を描き続けた。10年、20年…。
銘板を付けるまで30年、祖父を待たせた。年月が経つにつれて、声を上げづらくなる。
「節目は、自分の気持ちが切り替わっていく瞬間ではないか。年月を重ね、震災が歴史的な事実として認識されるにつれて、被災者と遺族の『辛かった、悲しかった』という生々しい声が遠ざかる。30年という節目は、祖父の名前を(モニュメントに)加える最後の機会だと思っていた」と振り返る。
ありし日の多田さんの肖像画を持参した。「ホッとしたのが正直な気持ち。“銘板”という1つのかたちとなって、祖父が確かにこの街で生きていた証(あかし)となった。これで良かったと思う」。
少し潤んだ瞳は優しく、しっかり前を見つめていた。