阪神タイガース顧問・岡田彰布「野球人」としての信念語る 取材の中で明かした“チームの裏側”とは? | ラジトピ ラジオ関西トピックス

阪神タイガース顧問・岡田彰布「野球人」としての信念語る 取材の中で明かした“チームの裏側”とは?

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 今季、圧倒的な強さを見せる阪神タイガース。その躍進の裏には長年球団を支えてきた岡田彰布氏の存在があります。2023年、阪神タイガースを38年ぶり2度目の日本一に導いた球団オーナー付顧問・岡田彰布氏が自身の野球人生や指導者としての哲学を語りました。

阪神・岡田彰布球団オーナー付顧問、パーソナリティーの安本卓史

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 岡田氏は高校卒業後、早稲田大学に進学。特にセレクション時に「10打席で7本の場外ホームランを放った」という伝説的なエピソードは、今でも語り継がれています。プロ入りの際には、ドラフトで6球団から1位指名を受けました。抽選の結果、阪神への入団が決定。当初は読売ジャイアンツからの指名が期待されていましたが、指名はなし。当時はドラフト指名枠に制限があり、代わりにドラフト外で多くの大学生を獲得していたという時代背景もありました。岡田氏は当時を振り返り、「監督の宮崎さんも怒っていた」と笑います。

 1985年、阪神タイガースは21年ぶりのリーグ優勝と日本一を達成。岡田氏は打率.342(リーグ2位)という成績でチームの勝利に大きく貢献しました。その後、オリックス・ブルーウェーブに移籍し、2年間プレー。1995年にはリーグ優勝を経験し、その年に現役を引退。引退後は助監督兼打撃コーチとして指導者の道を歩み始めます。

「指導者の第一歩がプロ野球の一番底辺、オリックスの2軍だった。あの時はひどかったよ」と当時の苦労を振り返りつつも、「イチローが5位で。あんな選手がいるなら、当然上にはもっといい選手がいるだろう思った」と、若手選手の可能性を信じていたと話します。選手育成については、「差別はしてはいけないが、区別はしなければならない。絶対一軍にはいけないやつ、悪い方を選んだ。悪い方を区別して集中して教えた」と、独自の指導哲学を語りました。

 1998年、吉田義男監督の誘いで阪神タイガースに復帰。翌年には、二軍監督として若手育成に尽力します。選手の素質を見抜く力について、「若い時は聞く選手が伸びる。一番手を挙げたのは関本(賢太郎)よ。濱中(治)は、分かってないんちゃうかなと思うような感じやわ。関本は分かってなかったら手上げてた。そういう性格とかもあるけどな、結局、関本が長いことできたもんな」と述べました。特に高校卒の若手選手には、「短所を直すより、長所を伸ばす」ことを重視。選手個々の特性を見極めたといいます。

「野村(克也)監督とは考え方が全然違った」と語る岡田氏。特に印象に残っているのは、「二軍では短所を直せ」と指示されたことだったといいます。「ドラフトで選ぶ選手は一つでも秀でたところがあって取っているのに、短所を直せと言われた。これはちょっと無理だと思った。俺は基本的にはいいとこ伸ばしてやりたい。だから『1年間は教えるな』ってバッティングコーチに言った。頭を打った時に、選手が『僕、どうしたらいいんですか。打ち方分かりません』って絶対言ってくると。そこまで我慢して待てと言った」と、独自の指導スタイルを明かしました。

 2003年、星野仙一監督の後任として一軍監督に就任。大幅なチーム刷新を経て、2005年にはリーグ優勝を達成。チーム再建の苦労について、「ピッチャー陣が年寄りばかりで不安だった」と振り返ります。JFK(=ジェフ・ウィリアムス・藤川球児・久保田智之)体制の形成については、「オリンピック期間中に試せたことが大きかった」と分析。「藤川は、前の年に戦力外通告を受けてたからね。でも、俺が監督になったから『あかん。俺は後ろで使うつもりでおるから』って変えた」と、その裏側を語りました。

 そして、現在のタイガースについて。「チームとして完成されているから、何やっても誰が出ても勝てるようになった」と評しました。「熊谷(敬宥)や植田海は、俺の時はほとんど代走ばっかりだった。関本(賢太郎)が俺に『植田海が1年目からセカンドやってたら今の中野(拓夢)よりも絶対上になってますよ』って言ったけど、誰がそういう立場にしたんやっていうこと。これプロ野球だから、その辺は難しい」と述べつつ、「でもチームとして形を勝てるチームにしてしまえば、何やっても勝てる。やっぱり勝たないといけない。最終的には勝負事だからね」と締めくくりました。

※ラジオ関西『ハートフルサポーター』2025年9月22日、29日放送回より

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