兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第33回のテーマは「『中国行程記』から(19)楯岩城」です。
太子町太田の楯岩城は、山の中腹を国道2号太子竜野バイパスのトンネルが貫く城山の頂上にあります。登山道の途中には大きな岩がごろごろあり、城の名前の通り、盾のような岩が連なり、一部は石垣のように積み上げられています。大字地名に基づき「太田城」とも呼ばれます。海抜250㍍の山上の「楯岩城大山構跡」の立て札からすると、別の太田城の出城だったのかもしれません。江戸中期の『播磨鑑』によれば、後醍醐天皇の「建武の新政」の頃、1330年代に赤松円心の長男・範資の息子・赤松則弘(広)が太田城を築城したとしています。この則弘は、後に広岡五郎を名乗る広岡氏の祖とされます。
「嘉吉の乱」で落城後、円心の次男・貞範の曽孫で、足利将軍の近習を務めた赤松貞村が居城し、130年ほど5代にわたって続き、1570年代の後半、秀吉の播磨攻めで落城したと思われます。江戸後期、小屋左次右衛門という姫路藩士が城跡に登って描いた見取図では、現在のテレビ塔辺りが本丸で、南と西北に延びる尾根に二ノ丸、三ノ丸を備えた、かなり大規模な山城と記しています。
城山にある楯岩城について『中国行程記』は意外な情報を記しています。江戸中期の1763年から商都・大坂と安芸の広島、山口県長門の赤間が関の間に、相場をいち早く知らせるための「印狼煙(しるしのろし)」による通信が始まり、当地の城山にも番人が詰めているとあります。歴史的には「古代の狼煙通信」「近世の旗振り通信」はよく知られていますが、この頃にも狼煙通信があった事実を教えてくれます。大坂―広島間が2日、赤間が関までは3日で伝わったと言いますので、当時としては驚異的スピードだったでしょう。
古代の狼煙通信で思い出すのは朝鮮式山城です。663年の「白村江」の敗戦を機に、対馬から北部九州、瀬戸内沿いに畿内まで多数造られました。海峡を越えての危機は、敗戦の13年後、唐が朝鮮半島から撤退した676年ごろには無くなっていたのに、多くの山城は維持され、四半世紀も「朝鮮式山城」が戦いに備えていたのは不思議です。朝鮮半島から畿内を目指す船団は備讃瀬戸を必ず通るため、挟み撃ちするのに岡山と香川の防衛拠点は理にかない、一連の古代山城は、律令制に基づく新国家を目指す「朝廷肝いりの拠点」でもありました。城と城の間隔が20㌔程度に保たれ、狼煙などの連絡・通信を意識していたのが証拠で、山城ネットワークが朝廷によって整然と構築されていたわけです。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年11月17日放送回より
ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年11月17日放送回音声