日本独特の接客文化をもつ温泉旅館。ここには必ず名物女将が存在する。そんな女将たちを徹底的に密着取材し、本音や熱き思いを引き出した本がいま興味深い。「女将は見た 温泉旅館の表と裏」(文春文庫)の著者は、温泉エッセイストの山崎まゆみさん。国内のみならず世界の32か国の温泉をめぐった女性ルポライターで、跡見学園女子大学では観光温泉学の講師を務めている。
かつて温泉旅館は団体の男性主体で成り立っていた。それがいつのころからか個人旅行にシフトされ、女性客重視の経営やひとり旅の積極的な受け入れへと形を変えている。
そんな中、今も昔も不倫利用は不変の現象。妻とも泊まり、愛人とも利用する男たちを女将はつぶさに見てきた。ゆえに「いつもありがとうございます」とは決して挨拶しないという。
あるとき、お客に宿泊のお礼状を送ったら、妻から「うちの主人は、そちらには泊っていないはず」と疑惑の電話。その時とっさに返した女将の言葉がお見事! 女将の言葉に妻は即刻、納得し「今度主人とゆっくり伺うわ」と声がはずみだしたという。
いまだ各地に残る「混浴露天」では、旅館各所から風呂場が見えてしまうところがあるという。しかし旅館に言わせれば「あけっぴろげの方が風紀上いい。妙に囲う方が悪いことをする人が出てくる」というのだ。かつて男女一緒に入っていた湯治場の雰囲気をそのまま残しているところに、裸のいやらしさは微塵もないらしい。
地元の老舗旅館では天皇陛下御夫妻にご宿泊いただくのも大きな名誉。だいたい1年前くらいに県庁から受け入れは可能かと打診がくる。そして準備は半年前から始まり、宮内庁・県警・知事秘書が何度も下見に来るという。「普段のままで。特別な準備は必要ありません」と言われるが、そうはいかない。壁紙・じゅうたん・ソファ・畳・ベッドまですべて新調し、貴賓室には防弾ガラスも取り付けている。そして3週間前に160種類ほどのメニューを宮内庁に提出。当日は天皇・皇后両陛下に希望の食事をリストから選んでもらうのだが、2泊目の夜に天皇陛下が所望されたのは予想もしないメニューだったという。
まさにエピソード満載の温泉旅館だが、この10年、東日本大震災や台風・大雨など自然災害に見舞われ、さらに昨年からのコロナ渦で、どこもかなり経営は厳しい。こうしたなか、女性経営者として地域の顔として、責任や土地の文化までを背負い、日本独自の接客サービスを守りぬく女性たち。女将は書いて字のごとく、まさに女の将軍なのだ。
今でも日本では旅館の娘が婿をとって継ぐケースが多い。夫は社長ながら表に出ず経営を担い、女将が全面に押し出されてすべてを仕切る。「旅館の娘が結婚するってことはね、単に婚姻届に判を押すというだけではない。夫になってくれる人は、私の旅館が抱える借金の連帯保証人になるということ。旅館を継ぐって、そういうことなの」と語る女将の言葉は重い。
今回は主に関東・東北・甲信越の女将が登場するが、続編があるならば、ぜひ西日本の名湯旅館の女将も取り上げてほしい。外国からの客もいなくなり、コロナ禍で大きな打撃を受けている宿泊業界。世が落ち着いたら独自のサービスやおもてなしを展開する温泉旅館で、名物女将とゆっくりしゃべってみたい。(羽川英樹)