フリーアナウンサー・田中大貴(元フジテレビアナウンサー)と林歳彦氏がパーソナリティーを務めるラジオ番組『としちゃん・大貴のええやんカー!やってみよう!!』に、阪神タイガースとオリックス・ブルーウェーブで投手として活躍した元プロ野球選手の野田浩司さんが2週続けてゲスト出演。5月31日放送では阪神時代を振り返った。
熊本県出身で巨人ファンだった野田さんが、1987年のドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受け入団。「虎風荘」に入寮すると、阪神の独特な雰囲気に圧倒されたという。
初めて甲子園で投げたときの心境を、「声援の大きさに地響きを感じた。緊張で両手両足の震えが止まらず、1球もストライクが入らなくて押し出しのフォアボールになった。いつもテレビで見ていた阪神対巨人戦の甲子園に自分がいる不思議さや、バッターは憧れの中畑(清)選手(当時巨人)で、完全に舞い上がっていた。『生涯最高の緊張』だった」と昨日のことのように振り返った。
その後「お化けフォーク」を武器にエースとして活躍する野田さんだったが、亀山努・新庄剛志の両選手(当時)の台頭で「亀新フィーバー」と湧いた1992年のオフ、球団からオリックスへのトレードを言い渡される。
「『申し訳ないが行ってくれるか。5年間よく頑張ってくれた。チームとしては、今年優勝できなかったので打てる内野手が欲しい』と。相手が松永(浩美)選手なのは光栄だったが、正直なところ断ろうと思っていた」と当時の思いを吐露した。
西宮の家を売り払い、引っ越しすることで気持ちの踏ん切りをつけたという野田さん。オリックスに行ってみると「ピリピリしておらず、何というか、のんびりしていた(笑)」という。なにくそという気持ちで挑んだ移籍直後の1993年に17勝5敗で最多勝を獲得。その後も2度のリーグ優勝、1度の日本一、そして、19奪三振の日本記録達成という偉業を果たした野田さん。手放した存在の大きさに阪神ファンはやきもきしただろう。