1993年から2022年までの30年間にわたって第一線で活躍した元プロ野球審判員がラジオ番組に出演し、審判員時代の経験や、現在の活動について語りました。
元プロ野球審判員の丹波幸一さん。アンパイアとして通算2153試合に出場し、日本シリーズ(5回)、オールスターゲーム(3回)、第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)や東京2020オリンピックでも試合のジャッジを担当した経験を持ちます。
その丹波さんは、リトルリーグから野球を始めましたが、高校時代のけがでプロへの道を断念。その後、当時の“助っ人”として大活躍していたランディ・バースさんやウォーレン・クロマティさんとアルバイト先で出会い、「彼らとしゃべってみたい」という思いから、アメリカに留学して英語を学んだといいます。
帰国後、大学4年生のときにオリックス球団で通訳のアルバイトに就きました。ちょうどそのときはイチローさんや田口壮さんらがオリックスに入団した年で、充実した生活を送っていた丹波さんですが、キャンプから戻った頃に父親が急死。「サラリーマンだった父親の死を経験して、私もこのまま就職したら、同じような感じになるんじゃないかなと思って……。結局、就職活動をするタイミングを失った」。
それでも丹波さんは、「『自分の財産はなにか』を考えたとき、浮かんだものは『野球』。野球に携わる仕事に就きたい」と、球界への思いは捨てず。「通訳として就職しないか」という声もかかっていたそうですが、グラウンドに立つ審判の姿が目に入り、審判員になることを決断しました。
当時の審判員は、空き枠がないと募集もないほど狭き門。そのなかで審判員としての道の第一歩は、アメリカの審判学校への派遣。月曜日から土曜日にわたって、朝から晩までルールについて徹底的に叩き込まれたといいます。「ルールの歴史から学ぶので、正しくルールを解釈できた。なぜこのルールができたか、このルールは何のために適用するのかを実践で学べた」。
そして、1993年、丹波さんはパシフィック・リーグの関西審判部に入局します。1軍での初出場は、 1994年6月2日にグリーンスタジアム神戸(現、ほっともっとフィールド神戸)で行われたオリックス対日本ハム戦、レフトの線審を務めました。
“審判のジャッジは絶対”と言われるものの、審判生活のなかでは、厳しい叱咤激励が届くことも多かったのが実情。プレッシャーを強く感じる職業であり、「甲子園球場であれば5万人に一瞬にしてやじられたり、罵られたり。 そういうのに耐えてきた30年間だった」と回顧。また、近年採用されているリクエスト制度(ビデオ判定)については「公開処刑の粗探しみたいなもの」と率直な思いを吐露。「メンタル命だった」と、現役時代の心境を明かしました。
「ユニフォームを着たら、審判として、有名な監督とも対等に過ごさないといけない。当時の野球界は根性論とか経験論だったので、 自分で自分を奮い立たせないとダメだった」と語る丹波さん。しかし、強気な姿勢は長く続かないことに気づき、メンタルの勉強をするようになったといいます。
「自分が30年間続けられてきたのは……」と切り出した丹波さんが、「心の拠りどころ、弱い気持ちを切り替えてくれる存在」「自分にとっての師匠」と紹介したのは、元パシフィック・リーグ審判部長の村田康一さんです。
「落ち込んでいるときはゲームが終わったあと食事に連れて行ってくれた。『ユニフォームを着たらおまえが一番偉い。王(貞治さん)、長嶋(茂雄さん)とか関係ない。おまえが一番偉いんや!』と送り出してくれた」と、村田さんとのエピソードを語り、「30年間その言葉に支えられてやってきました」と、恩師に感謝を述べました。