兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第5回のテーマは「梶山城と肥塚氏」の前編です。
たつの市揖保川町市場にある梶(加治)山城は、市の東部を南北に貫き「母なる川」と慕われる揖保川の下流域を押さえる肥塚氏の居城でした。播磨灘から北へ4キロほど上がった揖保川下流域の西岸すぐにあります。海抜が83メートルほどしかないため、一般的な山城の基準の200メートルには全く足りません。
伝承では1392年に赤松七条家の赤松治部少輔(じぶしょうゆう)教弘が築城したとされます。赤松円心の長男・範資の系統を七条家と言いますが、教弘は範資の曽孫です。赤松七条家の4代目・教弘から、息子の教久が家督を相続したものの18歳の若さで亡くなります。
梶山城築城から50年近く後の1441年、嘉吉の乱でお家の急を聞きつけ、たつの市新宮町馬立の城山城に馳せ参じた赤松方119の武将の中に「揖東(いっとう)郡梶山城主・赤松左京允(さきょうのじょう)教久」の名があります。恐らく城山城で戦死したものと思われます。
梶山城を築城した赤松教弘が生前、1.5キロほど西の伝台山(つだいさん)城に移った後は肥塚頼房が梶山城に入り、以後、肥塚氏が数代にわたって根城としました。しかし1556年、祐忠(すけただ)の代に、太子町太子にあった楯岩城の広岡五郎に攻められ、落城したとされます。
攻め手の「楯岩城の広岡五郎」とは、円心の長男・範資の末に近い息子・則弘(広)のことで、後に広岡五郎を名乗り広岡氏の祖となりましたが、どう考えても年代が合いません。広岡五郎の方が200年余りも古いのです。ひょっとして5、6代も後の世襲名かもしれません。ともあれ、梶山城が落城後は龍野赤松氏配下の円(丸)山河内守秀喜が城主となり、天正年間の初め1570年代に廃城になったと言います。遺構として尾根筋に多数の曲輪が残っています。
梶山城の城主を数代にわたり務めた肥塚氏は現在、たつの市と姫路市内に多い名前ですが、たつの市御津町を中心に分布し、「並び矢紋」を家紋に持つ家と、姫路市の広峯神社の神職で御師(おし)を世襲した「橘紋」の家との2系統に分かれます。御津町中島出身の代議士で、明治・大正期に活躍した自由民権運動家・肥塚龍(りょう)は、たつの市の小学校社会科副読本『郷土の発展につくした人たち』にも掲載されています。武将・肥塚氏の末えいかもしれません。
(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)
※ラジオ関西『山崎整の西播磨歴史絵巻』2020年5月5日放送回より
ラジオ関西『西播磨歴史絵巻』2020年5月5日放送回音声