西播磨歴史絵巻(7)「伝台山城」 | ラジトピ ラジオ関西トピックス

西播磨歴史絵巻(7)「伝台山城」

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 兵庫県西播磨の山城への探求に加え、周辺の名所・旧跡を併せるとともに、古代から中世を経て江戸時代、近代にかけて、西播磨で名を挙げた人物についても掘り下げていくラジオ番組『山崎整の西播磨歴史絵巻』。第7回のテーマは「伝台山城」です。

山崎整の西播磨歴史絵巻
『山崎整の西播磨歴史絵巻』

 たつの市揖保川町袋尻にある伝台山城は、前回の梶山城から1.5キロほど西という近さから、深いつながりがあり、梶山城の「揖保川の下流域を押さえる肥塚氏の居城」に対して、伝台山城は「室津街道ににらみを利かす城」でした。

 伝台山城は賀茂神社の南西にそびえる海抜129メートルの山上にあり、最初の城主は紀ノ説孝とされますが、他の伝承もあります。観応年間(1350~52)に大阪府東部の河内荘を支配していた西脇内匠頭が築城し、1392年に梶山城主の赤松教弘が伝台山城の城主になったという説です。

 赤松教弘とは先に述べたように、赤松円心の長男・範資の曽孫で、赤松七条家の4代目に当たり、梶山城の築城者でした。しかし、すぐ近くの伝台山城を最初に築城したとされる紀ノ説孝も西脇内匠頭も人物の実像はよく分かりません。

 この伝台山城は、1441年の嘉吉の乱で落城し、1469年に赤松政資が再築城しますが、1570年に廃されました。初登場の政資とは、どんな係累の人物でしょうか。最も分かりやすいのは、後期赤松氏初代の政則の養子となった赤松義村の父です。梶山城を築城した教弘から見れば、政資は曽孫に当たります。

 伝台山城には曲輪や石積みの遺構のほか、山頂に縦10メートル横10数メートルの長方形の削平地などが残っています。江戸中期の地誌『播磨鑑』や1903年に編まれた『兵庫県揖保郡地誌』などによると、鎌倉幕府の第2代執権・北条義時の頃(1205~24)の築城と伝えます。

 築城から100年余りたった1330年代には、浦上村宗と息子が伝台山城に入り、20年ほど後の観応年間に西脇内匠頭が城主となったものの、1392年、赤松教弘との戦いで伝台山城は落城しました。

 後に西脇氏は帰農しましたが、地元の名家として続き、4代目・三郎太郎は、1427年に現在の賀茂神社に当たる賀茂大明神の社殿を建立し、戦国期の1522年には、今も残る浄土真宗本願寺派の超念寺を開基しました。さらに、子孫の太郎右衛門は、姫路城築城の際に材木奉行を務めました。その事実は、1956年に昭和の大修理で解体された心柱に名前が記されていたことから判明しました。

(文・構成=神戸学院大学客員教授 山崎 整)


ラジオ関西『西播磨歴史絵巻』2020年5月19日放送回音声

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