「僕は、マウフェは命を削って油彩画やデッサンを描いていると思っている。時々、彼は疲れ果てているよ」-1882年1月26日、ゴッホから弟テオへの手紙より
さらに、第2部「印象派に学ぶ」では、弟テオを頼ってパリに出たゴッホが印象派に触れ、自分だけの作風を手に入れる姿を感じることができる。原色を多く用いた明るい画面づくりと、筆触を残し、線や点で生き生きと風景を描く手法を取り入れたことで、作風が劇的に変化した。
まず影響を受けたといえるのが、”孤高の画家”アドルフ・モンティセリ。モンティセリの《陶器壺の花》から「背景に暗い色を使い、原色で描いた花を鮮やかに浮かび上がらせる」「絵の具を厚く塗り重ねる」という特徴を取り入れたのが、《花瓶の花》だ。この頃から、ゴッホの絵の色調が明るくなっていく。
また、それまで写実主義的な絵を描いていたゴッホは、数人の画家たちの影響を受ける。例えば、印象派の代表格ともいえるカミーユ・ピサロの作品≪エラニーの牛を追う娘≫は、光を取り入れた明るい色遣いや、神秘的な筆触が特徴的だ。これらの作品に衝撃を受けたゴッホは、弟テオにあてた手紙に「あぁ、クロード・モネが風景を描くように人物を描けなければ」と記している。現状に満足せず、常に高みを目指すゴッホの”真面目さ”を感じることができるだろう。
「ここで自然を描くためには、どこでだって同じだが、長い間自然の中にいなければならない。〔…〕なぜなら光は神秘的で、モンティセリもドラクロワもそのことを感じ取っていたからだ。それに、ピサロも昔そのことについてよく話していたよ。だけど僕はまだ彼が言うように理想的には全く描けない」-1889年6月25日、ゴッホから弟テオへの手紙より
ゴッホのたゆまぬ努力が実を結び、その才能はアルルで開花する。南フランスの光溢れる景色の中で、原色をつかい、絵の具を厚く塗り重ね、うねるようなタッチをはっきり残す、独自の技法を確立させた。《麦畑》や《パイプと麦藁帽子の自画像》はこの技法がよく表れていてわかりやすい。